加津佐セミナリヨ・コレジヨ跡
加津佐セミナリヨ・コレジヨ跡([瀬詰崎台場 碑・説明板])
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加津佐セミナリヨ・コレジヨ跡の口コミ情報
2023年03月12日 龍馬備中守【感謝】
長崎県の南島原市の加津佐にある【加津佐セミナリヨ・コレジヨ跡と白浜海岸と口津港】♪各地を転々としたコレジヨ・セミナリヨが加津佐に移されたのは、1590年(天正17年)の事になります☆
もともとキリスト教は大友氏の庇護下にあった豊後国の府内に設置されていました♪
有馬氏のセミナリヨと時を同じくする1580年(天正8年)に開かれています☆しかし1586年(天正14年)に薩摩国・島津家による焼き討ちにあい移転を余儀なくされ、ここ加津佐に移転☆1590年(天正18年)の出来事で翌年には天草へ移りました☆コレジヨはその後、長崎などへの移転を繰り返しています☆
セミナリヨとは修道士育成の為の初等教育機関で現在の西洋式の中学校に相当します♪
コレジヨはキリスト教の聖職者を育成する為の高等教育機関で現在の西洋式の大学にあたります♪
この加津佐セミナリヨとコレジヨはルイス・フロイスの記録では『修院も学校も海に近い丘の上にある』『それは海に近い』と記されていて、ここがコレジヨ・セミナリヨがあった場所だと推定されてます♪
今は住宅地の中に看板が残ります☆
天正遣欧使節が持ち帰った、西洋の優れた印刷機は加津佐のコレジヨに運び込まれていてグーテンベルグ活版印刷機というものを使い『サントスの御作業の内抜き書第一』『どちりいなきりしたん』など印刷し出版しています☆こうした書物が布教の重要な手段となりました☆が、禁教令という時代の風雲に飲み込まれていく訳であります…
加津佐セミナリヨ・コレジヨのあったとされる丘から西側に異国に繋がる海が広がります♪口津港は1567年の永禄10年にポルトガル船3隻が入港して以来、戦国時代には南蛮貿易の拠点になっています♪
南側にある白浜海岸の砂丘からは数基のキリシタン墓碑が発見されています♪
往時の日本におけるキリスト教の指導者育成の為の重要拠点となった島原半島には多くのキリシタンの遺物や遺構など、歴史的な遺産が多く残っています♪