真崎城
真崎城([伊賀峰城 周辺城郭])
伊賀峰城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「真崎城」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
真崎城の口コミ情報
2025年08月02日 龍馬備中守【】
長崎県諫早市の真崎にある【真崎城】♪古くは『まっさき』と称した真崎は、島原半島の基部、大村湾に注ぐ東大川下流右岸と、同川支流の真崎川流域に立地し、西側の今村川を挟み対岸1キロの場所に、伊賀峰城があります♪ほぼ全域が、風観缶に連なる高原状の低丘陵地となります♪真崎城は、真崎の城山の標高73mに所在します♪
真崎城に関する文献的記録は無く、不明な事ばかりですが、地元の伝承によると、志々岐四郎左衛門が築城したと同時に、この地方を開発したと伝わります。近くの水田に小浜の浜という地名が残っていて、入江であったこの場所を、志々岐四郎左衛門が干拓したと伝えられています。
山上に本丸跡とみられる削平地、虎口跡、石積み、土塁、横堀の遺構が存在し、北の峰に続く鞍部には、礫石の集積跡が残ります。水の手は、南西山麓の、もと湧水池と考えられる遺構があり、コレが水の手と考えられています。小字名にしろじゃ(館跡の意とされます。)が残り、しろじゃの坂(四郎左衛門坂)という地名も残ります。
麓には志々岐神社があり、コレは志々岐氏を祀った神社です。平成5年、志々岐神社の社殿の改築の際に、床下から発見された五輪塔基台(地輪)と思われる石材には、寛正二年奉巳十二月(1461年)道仙善門と刻まれてあり、この道仙善門が何者か?分かっていない様ですが、志々岐氏に纏わる人物なのでしょう。志々岐四郎左衛門という人物の経歴など明らかではありませんが、土地の豪族として、この地で生きた証が真崎城なのであります。
この志々岐ですが、中世より、平戸島にみえる地名です。当地名を称する志々岐氏は、式内社の志々岐神社の大宮司家であり、寛元元年(1243年)には『志岐宮司家安』が御家人の一人として、益田通弘と山代固後家尼の相論に際して、証人となっています。
志々岐姓を名乗る一族の中には、松浦党があります(志々岐松浦)。この関係性は分かりませんが、恐らく同族か何かなのでしょう。
真崎城の立地は、諫早地方の西部であり、大村側の伊賀峰城と約1キロ隔てて相対する場所から、合戦時には諫早側の見張城の役目を持ったのでしょう。諫早の高城(西郷氏の居城)からは見通しの利く位置にあり、随時連携を取った事が考えられます。