天童陣屋

天童陣屋([天童城  周辺城郭])

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天童陣屋の口コミ情報

2024年08月18日 国府左京大夫城介


天童藩織田氏の陣屋

【歴史】
天保元年(1830)に、織田信美が高畠から天童に移転して立藩した。

この頃の織田氏は、明和事件に連座したため、明和4年(1767)に上野・小幡から出羽・高畠への移封となり、国主格の待遇も廃された。領地の多くは、村山郡(現在の山形市、天童市、村山市など)にあったため、幕府に許可をもらい、高畠から天童へ移った。

大政奉還後、天童藩は維新政府により奥州鎮撫使先導に任じられた。藩主が病弱であったため、家老の吉田大八(天童の名産である将棋駒の製造を推奨した人物)が名代を務めた。慶応4年4月4日に、旧幕府の庄内藩が天童藩に攻め込み、陣屋や城下町が焼討に遭った。その後、奥羽越列藩同盟が発足すると、天童藩も先導役を辞して、同盟に参加した。しかし、鎮撫使先導の名代を務めた吉田大八は責任を取って、観月庵にて切腹した。

【遺構】
天童城がある舞鶴山の西側に位置し、現在の田鶴公民館付近が御殿にあたる。
陣屋絵図によると、御殿を囲うように水堀があり、東側に大手門があり、一直線に行けないように道を曲げている。家老の吉田大八邸は、御殿の南東側にあった。御殿の西側には、調練場、御馬場や鉄砲山などの武芸の稽古場が点在している。

街の開発に伴い、遺構は消滅しているが、公民館の脇に石碑(天童藩記□□)大手門や吉田大八邸などの標柱や説明板が立っている。

【感想】
織田信長の末裔が立藩した藩ですが、遺構は消滅してしまったのは残念です。戊辰戦争の兵火に遭わなかったら、陣屋とかの建物も残ったのかな? 
スポット登録されている場所は、御殿の西側の曲輪にあり、陣屋図がある公民館は線路を挟んで東側にありますので、リア攻めする場合は注意してください。
また、今回は時間がなく訪れることができなかったですが、天童織田の里歴史館には天童織田藩の関連資料もあるようです。

【アクセス】
天童駅から徒歩8分。

【写真】
①標柱(天童織田藩御陣屋跡)
②標柱(織田藩家老吉田大八屋敷跡)
③陣屋跡
④天童御陣屋絵図
⑤説明板(調武館・稽古所跡)
⑥石碑
⑦標柱(天童織田藩御陣屋大手門跡)

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