鼻繰城
鼻繰城([佐世保城 周辺城郭])
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鼻繰城の口コミ情報
2024年03月02日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
長崎県の佐世保市にある【鼻繰城】♪住宅地の中に存在する中世の山城となります♪
現在は保立公園となっています♪
眼下の佐世保川を挟んだ対岸に、佐世保城がよ〜く見えます♪佐世保城と共に佐世保の港を押さえたんでしょうね♪位置関係的にも佐世保城の支城群なのであります♪
この鼻繰城は佐世保城と共に戦国時代、遠藤但馬守が城主を担いました♪佐世保を領した遠藤但馬守であります♪
遠藤但馬守は平戸の大川原の村の出身となります♪遠藤但馬守の祖父である、遠藤弥六左衛門は延徳3年(1491年)箕坪合戦(平戸松浦正VS田平氏と有馬氏連合軍)に平戸方として参加しています♪松浦宗家と平戸松浦氏の間に挟まれていくのが、遠藤一族であります☆遠藤但馬守の時代になると、佐世保城や鼻繰城を居城として佐世保一帯を治めるまでに成長しました♪
松浦氏は薩摩島津氏同様に一族内でのイザコザが幾つかあって、松浦宗家である相神浦松浦氏と分家の平戸松浦氏は、15世紀後半から北松浦地域における覇権をめぐって激しく争っています☆この宗家と平戸松浦氏との間に続く交戦ですが、飯盛城の攻防戦の際、宗家松浦氏と平戸松浦氏との仲介役として登場するのが遠藤但馬守です♪その後、平戸からの養子・九郎親を宗家の飯盛城へ迎えるという条件のもと、両家の和睦が成立しています♪
こうして平戸松浦氏は、相神浦松浦氏を事実上支配下に置きました☆さらに当時佐世保に根強い勢力をもっていた遠藤但馬守を、佐嘉の龍造寺氏と内通したとして、ことごとく一族を攻め滅ぼしました…。。
この事件は平戸からの養子である九郎親が、遠藤但馬守の娘欲しさに内通の話をでっちあげ、遠藤但馬守をだまし討ちにしたとも云われています…。。元亀3年(1572年)の出来事です☆
因みにこの時に遠藤但馬守は奮戦していて、飯盛川を渡っている際に4人に襲われます(古川治部左衛門、山本相模、北川龍也、山田四郎右衛門)が、うち1人である山田四郎右衛門を討ち取っています☆しかし、往時、佐世保に根強い勢力をもっていた遠藤但馬守は、この山本相模、北川龍也によって討ち取られたとされています☆
鼻繰城は南北に連なる郭から構成されていたのかな〜?地形地図では、明らかに郭と思われる削平地があります♪
公園部分は、現在は分かりませんが、中々広めの削平地があったのでしょう♪
さらにこの鼻繰城は明治時代には、陸軍の演習場としても利用されています♪
保立公園の下の清水中学校は、かつて陸軍の佐世保重砲兵連隊がありました♪
時代感は違えど、守る為に使用されていた事実は明らかですね♪