古館
古館([平戸城 周辺城郭])
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古館の口コミ情報
2025年03月01日 龍馬備中守【】
長崎県平戸市の大久保町古館にある【古館】
詳細は不明ですが、中世鎌倉時代頃の平戸松浦氏の居館があったと伝わります♪
石垣の上には土塀が残り、字古館という地名が残ります♪この場所以外にも、石垣が積まれた場所が何ヶ所残りますが、後には武家屋敷などとしても使用された名残が、今に残っているのでしょうね♪
松浦家の始祖は、第52代目の嵯峨天皇の第十八王子融で、832年源姓を賜り、家紋は三星を用い、朝廷に仕え累進して、左大臣の顕職につき、皇太子の傳(皇太子教育係)を兼ねています。山荘棲霞観を嵯峨に設け、住まいを六条の北、鴨河の西に営み河原院と称したため、世に河原の左大臣といいました。
松浦第2代目の昇(亜相)は、大納言となり朝廷に重用されますが、第3代目の仕(武州)から武将となり、武州、摂州等に転じ、各地に武名を轟かせています。中でも第5代目の綱(渡辺)は渡辺という地で渡辺の綱と称し、源頼光の四天王の一人として有名です♪正暦年間に源頼光に伴い西下し、岸嶽付近(岸岳城)に叛賊を平げました。これが松浦家の祖が肥前の国に関係を持つに至った始まりであります。
渡辺綱の子、久は筒井に。二男の授は肥前名護屋にいて、授(奈古屋)は後に京に帰り内舎人となり、6代を嗣ぎ、7代目の泰(滝口)は滝口太夫と称し後三条院に仕えています。
泰の子、第8代目の久(松浦)は延久元年(1069年)御厨検校として肥前国松浦の今福に下り、次いで検非違使を命じられ、上・下松浦郡、彼杵郡の一部である壱岐を治める事になりました。地名にちなんで初めて松浦姓を名乗り、梶谷城を築いて梶葉の紋を用いる様になりました。これが松浦氏の発祥であります。
コレにより、松浦の地に武士団松浦氏が発生していく訳です。平戸松浦氏も同様で、第11代目の松浦持(照山)が峯、鷹島、平戸、小値賀と五島東島の分領地の譲りを受け、1225年頃平戸に移り、館山(現博物館の裏山です)に城を築き、ここに平戸松浦の基礎を固めていきました。
さて、この古館ですが、中世鎌倉時代頃の平戸松浦氏の居館があったと伝わります。が、詳細は不明です。分かりません。
平戸での居館、城郭の移り変わりとしては、松浦持(照山)が初めて小値賀から平戸に移り、第15代目の松浦定(肥州)に至る約160年間は、館山城(現博物館裏山です)に居住していて、第16代目の松浦勝(国司)から第26代目の松浦鎮信(法印)に至る約180年間は、勝尾岳白狐山城を本城としています。その間に勝尾岳白狐山城は近隣の領主から攻撃を受け、一時は城を捨てて箕坪城に拠った時期もありました。
第25代目の松浦隆信(道可)は明人海賊王直と通じ、海外物資を導入し、その後、コレを大いに利用し、明人海賊王直を優遇して、居宅を白狐山の東麓に与えています。
第26代目の松浦鎮信(法印)は、朝鮮出陣帰還の後、慶長4年(1599年)亀岡(平戸城の場所)に日の岳城を築きます。しかし関ヶ原の戦い後、徳川家康に政権が移ると、築城間もないこの城を焼き捨て、徳川の嫉視を避ける事に務めています。慶長18年(1613年)の事であります。
以後の第29代目の松浦鎮信(天祥)に至る90年間は、蘭英貿易の最も盛んな時で、中之御館に居館を構えています。
第30代目の松浦棟(雄香)は、幕府の奏者役、寺社奉行等の要職に就き、徳川家の信頼が深まり、山鹿流による新城を亀岡に再築しました。コレが今ありし平戸城ですね〜♪廃藩に至るまで、8代170年間の居城となっています。
今回の古館は中世鎌倉時代頃の平戸松浦氏の居館跡とされ、平戸土着以降のものなのか?後に古館周辺は、平戸藩士の武家屋敷群となり、石垣や土塀が築かれたと思われます。
古館の詳細、どんなに調べても分からなかった。ので、この回は上手く誤魔化していますw