勝尾獄城
勝尾獄城([平戸城 周辺城郭])
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勝尾獄城の口コミ情報
2023年10月14日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
長崎県の平戸市にある【勝尾嶽城】♪正宗寺の背後の小山(標高66m)が城郭となります♪この正宗寺には、松浦宗陽(松浦隆信)の墓所があります♪対岸には平戸城が望める場所でもあります♪
築城年は不明ではありますが、南北朝時代に松浦勝によって築城されたと伝わります☆
一個前のpostでアップした『陣笠城』の続きになりますが、延徳3年(1491年)平戸松浦正(弟)と田平峯昌(兄)による、どちらが田平峰家の家督を継ぐのか?に発展した戦い『平戸田平合戦』であります☆この時、島原・有馬貴純の援軍を受けた田平峯昌方は、陣笠城に陣を張り、弟である松浦正の籠る勝尾嶽城を攻めています☆この攻撃に耐えられなくなった松浦正の軍は、更に西方にある箕坪城に退却を余儀無くされています…☆
箕坪城でも、その戦況を立て直す事が厳しくなった松浦正は結果、海路から更に逃げて大内政弘を頼り筑前に逃れています☆
この頃、北部九州では太宰少弐氏🆚大内氏がバッチバチに凌ぎを削っています☆押し込まれて行く太宰少弐氏の没落によって、この戦での勝者である田平峯昌は後ろ盾を失ってしまいます☆明応元年(1492年)には周防国・大内政弘の援護を受けた松浦正が、平戸に復帰し松浦弘定と改名しています♪松浦弘定が平戸に復帰する頃には、太宰少弐氏の肥前での力は大分削ぎ落とされた状況になっていました☆後の明応6年(1497年)田平峰氏は、大内義興の調停を受け入れざるを得なくなっています☆その調停によって峯昌の長子(興信)は松浦弘定の娘の婿となり、松浦氏の家督を継ぐ事になりました☆平戸松浦氏と田平峰氏は一体となり、平戸瀬戸も完全に平戸松浦氏が掌握する事になり、港市平戸の脅威も消滅☆松浦弘定は文明・明応の争乱後、敵対近隣勢力への反攻を進め…☆明応7年(1498年)には歴史の通りに相神浦松浦氏の居城・大智庵城を攻め、永正5年(1508年)には山代氏から鷹島を奪っています☆この様に、同族同士でも、争いの絶えなかった松浦一族です☆
その後の勝尾嶽城は、慶長4年(1599年)には松浦鎮信が日之嶽(後の平戸城)に城の築城を開始し此方に移った為、廃城となっています☆