小城藩・浪瀬番所

小城藩・浪瀬番所([梶谷城  周辺城郭])

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小城藩・浪瀬番所の口コミ情報

2024年10月12日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


佐賀県伊万里市にある【小城藩・浪瀬番所】♪松浦鉄道・波瀬駅の北側、伊万里湾にやや突き出した半島沿いの街道を、封鎖する様に番所は存在しました♪この沿岸部沿いの道は、松浦や平戸に抜ける街道だったのでしょう♪

別名を波瀬番所と云うこの番所は、幕末に小城藩によって設けられた番所の1つとなります♪
何故?小城藩が?という事についてですが…中世末(戦国末期)の動乱において、この地を領していた松浦党の諸氏は、龍造寺氏に征服されています。天正12年(1584年)、龍造寺隆信の戦死(沖田畷の戦い)は波多氏を離反させ、その支配地は後の唐津藩領となっています♪伊万里氏・山代氏・有田氏の旧領地は、龍造寺氏の所領を受け継いだ、鍋島氏の佐賀藩領となりました♪後の山代郷は小城支藩領となっていて、唐津藩領の中で大川野一帯は天領となる事もあり、現市域の行政区分と異なり、結構複雑だった様です。
唐津藩領と佐賀藩領との往来は、中世においては連携があったでしょうが、近世に至ると往来の板札の交付を必要とし、藩境の壁が作られたのです。コレは佐賀藩が外様大名である事に対し、唐津藩は寺沢氏の時代を除いては譜代大名であった事。また、佐賀藩・鍋島氏が地元同郷の大名の藩であるのに対し、唐津藩・寺沢氏は国替で入部した他郷出身の大名の藩であったという事もあり、現代に至っても、言葉や建築などに差異があります。そんな訳で、番所やいわゆる境界線は、結構ハッキリしているのです♪

『佐賀県の中近世城館』では、海岸沿いの番所跡の裏山山頂に、監視所跡と思わしき石垣造りを基調とした造成段が残るとありました♪
写真山間部は、その裏山山頂の監視所跡と思われる場所です♪海岸の番所跡というのは、民家の写真辺りだったのでしょう♪

因みに町内小島と云う場所があるのですが、現在は埋め立てられた状態となり、陸続きになっています♪古くはその名の通り、伊万里湾に浮かぶ小島だったのです♪大波瀬搦、小波瀬搦と字が残るのですが、これは宝暦7年(1757年)、『山代郷大波瀬・小波瀬・天神右三ヶ所搦地ニ相願候様御山方より被仰達ニ付而相願候処、御拝借銀等扨又くひ木迄被下、搦築立候事』(永尾家史料)とあり、江戸時代の宝暦頃の造成と思われます♪コレにより町、田畑合計が約二町五段だったものが、三町五段余に拡大しています♪伊万里もそうですが、北部九州沿岸部の西側は背面に山塊が迫り、居住、生活するスペースは限定的な為に干拓地を造る♪先人の知恵ですね♪

この小島には前方後円墳(小島古墳)があり、周囲からは埴輪円筒の破片などが採集され、6世紀後半に海上で活躍した人達の首長のものと考えられています♪古くからの歴史も残している波瀬エリアです♪

監視所跡と思わしき場所は2段の削平地、石積みの残片(旧畑か?)ありました♪城郭と違い、堀や土塁などは、見当たりませんが、虎口の様な開きは見受けられました♪森林が無ければ、眼下の平戸街道の監視は出来たでしょう♪番所があったと思わしき平戸街道は現在、旧道として、名残を見せます♪島の写真は、小島です♪

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