深堀陣屋
深堀陣屋([俵石城 周辺城郭])
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深堀陣屋の口コミ情報
2023年04月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
長崎県の長崎市にある【深堀陣屋】(武家屋敷・菩提寺)♪現在は深堀カトリック教会のある高台の場所が陣屋の中心部となります♪
俵石城の北麓に立地する深堀陣屋は野母半島の中部で、長崎港の外海に突き出ていて長崎港の前線であり監視出来る場所に立地しています♪江戸時代に造られた深堀陣屋です♪
鎌倉時代後期以降に土着した深堀氏は上総国深堀の御家人でありました♪深堀仲光は承久3年(1221年)の承久の乱で幕府方として戦っていて鎌倉幕府から恩賞地を拝領♪
深堀仲光の子・深堀能仲は恩賞地の変更を幕府に要求して建長7年(1255年)肥前彼杵荘戸八浦の新補地頭となっています♪戸八浦は上総国(現千葉県)から遠いので、この荘園は子・深堀行光に任せています♪
深堀行光は子・深堀時光を代官にし戸八浦へ派遣♪以後、深堀時光の系統が戸八浦に在住、土着して地名も深堀と呼ばれる様になっていきます♪
戦国期の深堀氏は諫早城の西郷氏から養子を迎えてて当主としています♪18代目・深堀純賢です♪深堀純賢は諫早・西郷氏と協力し大村氏、長崎氏との抗争を繰り返しました☆天正5年(1577年)からは肥前平定を目指す龍造寺氏に属して大村氏と争いました☆
その後、宿敵である大村氏は龍造寺隆信に降っています☆
天正12年(1584年)龍造寺軍🆚有馬・島津連合軍の戦いである沖田畷の戦いが勃発☆
大将である龍造寺隆信は討死してしまいます…☆
深堀純賢は龍造寺隆信の敗死後も龍造寺家に属し島津氏に反抗し続けています☆
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐時には、これに従い所領を安堵されました☆
沖田畷の戦い以降、龍造寺隆信が敗死した事で肥前の国政は龍造寺家に代わり鍋島直茂が実権を掌握していきます☆
深堀純賢は鍋島直茂に従い姓も鍋島に改め、深堀鍋島家の祖となっています♪朝鮮の役にも鍋島直茂に従い出兵☆
その後、深堀純賢は鍋島家の重臣・石井忠俊の娘(大宝院)を継室に迎え、その子の茂賢に家督を譲っています♪鍋島茂賢(深堀、石井とも)は佐賀鍋島藩の家老として深堀の地に6千石を賜ります♪名は鍋島となりますが、鎌倉期以来一貫して深堀の地の主として明治まで、突き進んでいきました♪
少し高台に立地する深堀陣屋♪江戸時代に長崎湾に出入りする船を監視する海防の役割を果たしました♪残る遺構としては石垣が見事に残っていました♪武家屋敷には武家門、更には曹洞宗・菩提寺には深堀家の墓所が残り、これが、深堀家の菩提寺となっています♪長崎湾を守る台場の数々も、深堀氏が変わっているものもありそうですね〜♪