久留島陣屋
久留島陣屋([角牟礼城 周辺城郭])
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久留島陣屋の口コミ情報
2025年03月08日 龍馬備中守【】
大分県玖珠町の森にある【久留島陣屋】♪
中世には来島氏として、瀬戸内海を掌握した村上水軍であり、近世には久留島と姓を改め、豊後国は森藩を治めています♪
元々、村上一族である来島氏は、中世より伊予国の来島を領有した豪族です♪
天正9年(1581年)来島通総の時に、豊臣政権に接近して以来、臣従し秀吉による四国征伐の際は、水軍衆として戦功をあげています♪これによって、伊予国の風早1万4000石を領する大名となっています♪来島通総の子である来島康親は、関ヶ原の戦いで西軍に与した事で、戦後にはこの所領を没収されています。。
が、しかし伯父である福島正則の取りなしにより、慶長6年(1601年)豊後国は玖珠、日田、速見の3郡から成る森藩1万4000石を与えられました♪
森藩2代目の来島通春の時に、漢字を変えた姓の『久留島』と改めています♪
森藩は1万4000石と、城主格ではなかった為に、背後にある角牟礼城は廃し、南麓にこの久留島陣屋を築いています♪一応、飛び地領として大分湾の頭成港を領していますが、メインは内陸部であり海に属さない領地であった為に、村上水軍としての来島氏は、これで終焉しています。
その後の3代目藩主の久留島通清の代の明暦元年(1655年)には、弟・久留島通貞(1000石)と久留島通迥(500石)の2名に分知が行われ、森藩は1万2500石に減っています♪以降の久留島家は、森藩1万2500石の藩主家として、明治初期の廃藩置県まで続いています♪
天保8年(1837年)久留島通嘉の時に、三島神社の改築として陣屋を城郭風に改修し、天守の代用とも云われる茶亭の栖鳳楼を建て、現在の状態になっています♪
最後の森藩主・久留島通靖は、明治2年(1869年)の版籍奉還で華族に列し、森藩知事に任ぜられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めています♪
陣屋と言いながらも石垣を多用し、西側には丸木御門、清水御門と、石垣に白壁を配し、城郭みたいです♪栖鳳楼と呼ばれる二階建ての茶亭は、天守代用の象徴として建てられました♪見所は御長坂と呼ばれる坂(現在参道)で、登石垣の様な造りで折れを伴い、コレまた城郭の様でありました♪旧久留島氏庭園のある所が、陣屋の御殿があった所であります♪
2021年05月27日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
「日本城郭大系」によると、久留島氏は村上水軍の後裔で、関ヶ原合戦では西軍に属したので、海の活躍の場を奪われて山深い玖珠に封じ込まれたとありました。
三島神社の改築ということで館を城郭風に改造して庭園も築いたそうです。