高祖崎城
高祖崎城([二丈岳城 周辺城郭])
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高祖崎城の口コミ情報
2025年03月19日 龍馬備中守【】
福岡県糸島市の二丈石崎にある【高祖崎城】♪別名を石崎城と呼ばれます♪古代には、周りは海の中であろうか?と思われそうな、ロケーションです♪西側は唐津湾が広がり、周りは小高い山々(島の様な?)が聳え、南側は脊振山地♪
そんな、山々に囲まれた盆地の中の高台に、高祖崎城は存在しました♪引き続き古代から怡土国として栄えた、糸島のお城です♪中世には大蔵一族である、高祖山城の原田氏が領しています♪
大字石崎は、糸島郡誌の中に以下のように記されています♪城郭の事ではありませんが、記載します♪
『人家本村(三十五戸)、口戸(四戸)、二所ニアリ。』
『田ハ晩稻。菜種畑ハ麥、粟等ヲ作ル。人口ニ比較スレバ田少シ。』
『隣村波呂、片峯、満吉、河原、松末五村ノ田地ヲ耕シテ、自ラ給スルノミ。』
『彊域東及南波呂十二町、長石九町、南滿吉八町、西上深江十一町』
『北松末二十二町、東北武十六町あり。人家は本村、口戶、堤田の三所にあり。』
『舊中津領廿四村の一なり。上右は此邊まで入海なりしと云ふ。』
『區の名も海濱より來れりと聞ゆ。地形平坦。』
かつての石崎村は、東南に満吉、東に波呂、西に上深江(片峯)に隣接し、平地面積の多い村でした。しかし田畑が少なかった為、村民は波呂、片峯、河原、満吉、松末まで耕作に出向いていた様で、人家は本村と口戸の2ヵ所となっています。『石崎』の地名は、遠い昔、深江の羅漢川一帯の平地が入り海で、現在の石崎北部も海に面していた事に由来すると考えられています。
また、同地には曲り田遺跡があり、昭和56年(1981年)にこの地で弥生早期の稲作遺構が発掘されています♪そこより南100メートルには、石崎の中央部である、一貴山小学校裏の小高い山があり、この山は『経塚山(京塚山)』と呼ばれ、毎年10月には「経塚山供養」として、山上の石塚に写経した石を奉納する慣わしがあります♪
さて、高祖崎城ですが、城郭の詳細は不明であります。現在、高祖崎城は一貫山小学校一帯となっています。小学校建設の際に遺構が破壊されている為に、土塁や石塁、堀等、見当たりません。幕政時代の代官所と思われるものが、僅かに現存します。
戦国時代には、高祖山城主・原田氏の支城であったと伝わります♪が、江戸時代には唐津藩領となっていて、寺沢志摩守広高により、この辺り一帯を治める為の支城として活用されています♪高祖崎城を利用して支庁を置いています♪寺沢氏が天草の乱の後に改易となると、廃城となっています。
享保2年(1717年)に豊前国中津藩領(奥平領)となり、武村に代官所を、後に、深江新町に奉行所を設け、明治までの間、司法・行政の全権を持って支配しています。