亀ノ尾城

亀ノ尾城([一ノ岳城  周辺城郭])

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亀ノ尾城の口コミ情報

2026年10月07日 龍馬備中守【】


福岡県那珂川市の市ノ瀬にある【亀ノ尾城と肥前筑前街道】♪南畑ダムの北側、標高421m地点に城郭は存在します♪亀ノ尾城の直下には肥前筑前街道(亀ノ尾峠)が走るのですが、この肥前筑前街道を挟むような形で、筑紫氏の詰城とされる一ノ岳城があります♪亀ノ尾城は山奥の単独山城ではなく、肥前と筑前の境目に位置し、2つの国を結ぶ亀ノ尾峠を押さえる城郭であります♪

亀ノ尾城の西側には、古くから【筑前国と肥前国】を結ぶ街道が通っていました♪この街道は12世紀初頭頃から、肥前神埼荘↔︎岩門荘↔︎博多を結ぶ交通路として機能していました♪

そして那珂川市市ノ瀬から山中へ入り、亀ノ尾峠↔︎五ヶ山↔︎肥前へ抜けるルートが、いわゆる亀ノ尾越と呼ばれ、この道は明治時代まで使用され、石畳の痕跡も残っています♪だからこそ亀ノ尾城は『山を越えてくる人と物のルートを監視・制御する城』つまり国境交通の城とも云えます♪

さて♪築城年代は分かりませんが、伝承や史料から、城主は麻生民部少輔と伝えられます。また、九州探題渋谷氏の居城とも云われ、更に周防国の大内氏が筑前へ勢力を広げた時期には、家臣である遠田弘常が城督を務めたとも云われます。麻生氏から渋谷氏、時代が深まると大内氏勢力、というように、時代によって城主は変化。国境交通の城なだけに、その都度、領主は入れ変わりますが、城の意味は変わらずに守り手だけが変わっていたのでしょうね。

天正14年(1586年)、ここで亀ノ尾城は戦国史の表舞台へ出てきます。薩摩国の島津氏は九州に覇を唱えるため北上し、筑前へ侵攻しています。当時、那珂川南部の一ノ岳城には筑紫広門側の勢力が存在していました。島津軍は一ノ岳城を攻撃したと伝わり、亀ノ尾城は島津軍の『向城』として使用されました。

面白いのが、筑紫氏の一ノ岳城は標高648m付近に位置し、島津氏が戦った亀ノ尾城の標高は421m。標高が高い方に陣を張った方が攻めるに有利に見えますが、亀ノ尾城は街道側を押さえる位置にあったのです。島津氏は街道を押さえる事を重要視した。街道とは物資は勿論、情報も入ってくる。いかに街道を抑える事が大事か?という事です。

もう1つ重要なのが『国境』である事。
五ヶ山周辺は、古くから筑前国と肥前国の境界地域であります。近世になると、筑前側=福岡藩、肥前側=佐賀藩という藩境にもなっています。このため江戸時代にも国境論争が起き、国境石が山中に残っていたりもします。
古代から中世、更には近世までも、ずっと『境界』と『交通』の歴史が重なる場所でありました。

中世における城と街道の交わり方♪非常に興味深いですね♪1枚目の写真は街道の切通しは亀ノ尾城の堀切でもある。最後3枚が石畳、肥前筑前街道。

2026年08月16日 ノシスケ


縄張り図の案内板は無いので持参しましょう。小川沿を歩くため、夏は虫対策必須です。肥前筑前街道の石畳に沿って進みます。山頂部の切り通しに到達すれば、右手に登城口があります。急勾配ですが階段が整備されており、登り切ると北の出丸に到達です。堀切を越えて登り切ると本丸に着きます。さらに本丸から笹城跡への案内板があり、一度降った先の土橋を越えると笹城跡に着きます。夏の登城でしたので草が茂って細かい縄張りは分かりませんでした。

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