天拝山城

天拝山城([大宰府  周辺城郭])

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天拝山城の口コミ情報

2023年09月16日 龍馬備中守【】


福岡県の筑紫野市にある【筑前・天拝山城】♪
天拝山の標高286m一帯に築かれた中世の山城となります♪眼下には、太宰府が見え、北西側には博多、南には小郡、基山と山間が細まった場所に城郭は立地します♪筑前国と筑後国の境目と言う表現が良いのか?もっと言うと、筑後国、筑前国、更には肥前国、豊後国への分岐点♪正に!あ〜!城あるな〜っていう場所です♪現在は展望台も作られていて、ハイカー達が行き来する場所でもあります♪

天拝山の名は平安時代の前期に『昌泰の変』で大宰府に左遷された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂した事で天を拝したという伝承に由来します♪

この天拝山城は築城年代は不明ですが、一つ前の堂山城と同時期では無いか♪と考えます♪まぁ堂山城の位置をみた時にその場所だけ城というのは余りにも不自然です☆
ピークを詰めとして機能していたんでは無いか?と想像出来ます♪

筑紫氏の領した、このエリアの15世紀は筑前進出を目指す、周防国・大内氏VS少弐氏が大激突☆戦国時代に入ると、豊後国・大友氏も加わり、太宰府を中心とする、このエリアは戦乱に明け暮れています☆筑紫神社の祠官だった、筑紫氏も筑紫地区を中心に、有力国人へと成長し、侍島(侍島合戦)では、大友氏と戦っています☆以降は、太宰府の岩屋城を固めた、高橋紹運と天拝山城や天山の柴田城を境目として、戦いました☆後には、筑紫氏、高橋氏の両家に婚姻関係が成立し、和睦しています☆

天拝山城は永禄2年(1559年)には筑紫右馬頭惟門の居城でありました♪その後、天正年間(1573年〜1592年)頃は筑紫広門の家臣・帆足備後守善右衛門尉が天判山城、飯盛城、堂山城を守りましたが、天正14年(1586年)薩摩国の島津氏の九州統一の際に攻められ落城しちゃいました…

写真の山の望遠は天拝山城から見た、高橋紹運の城郭、宝満山城、岩屋城♪更には太宰府と水城♪特に宝満山城は特徴的で分かりやすいです♪

2022年06月17日 大内周防守毛利


天拝山城(てんぱいざんじょう)は筑紫廣門の家臣、帆足備後が居城したとあります。

天拝山城は天拝山の山頂に東西に細長い形をしており、曲輪は三つから構成され真ん中の主郭は一段高くなっています。主郭南側の斜面の緩やかなところから尾根の境目には堀切が一条設けられており、東側の副郭の東側には土塁を兼ねた堀切とその外側にも堀切があり、計二条の堀切が城の東側に設けてあります。城の西側には遮断施設は確認されておらず、城の東側以外は切岸により切り立っています。

天拝山の麓には堂ノ山砦と飯盛城があり、これらの城は天拝山城と一体となって「武蔵ノ城」と呼ばれました(宮本武蔵とは無関係。天拝山の麓にある武蔵寺よりこの一帯を武蔵と呼び、武蔵とは武蔵国から僧侶が武蔵寺に来たことから由来するとされています)。

天拝山の山頂からは島津の九州征伐の際、高橋紹運の籠った岩屋城、次男の高橋直次の籠った宝満山城、長男の立花宗茂が籠もった立花山城、その中継地点にあたる井野山にある唐山東城や立花山城の対の城である高鳥居城を見ることができます。

写真
 ①東端の堀切
 ②東側の二番目の堀切と土塁
 ③主郭と天拝神社
 ④東側虎口
 ⑤天拝山山頂からの眺め
 ⑥西側の曲輪
 ⑦西側虎口
 ⑧南側の堀切と土塁

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