平家城
平家城([秋月城 周辺城郭])
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平家城の口コミ情報
2025年05月04日 龍馬備中守【】
福岡県朝倉市の堤にある【平家城】♪安見ヶ城山(休松城)から北西側の峰が、大平山(標高315m)♪この大平山から南側に伸びる尾根の先端部に、平家城は存在します♪堤集落の地名の由来は、当地の南の往還に大堤があった事によると伝わります(続風土記より)♪
堤集落の字大岩には縄文早期~前期の堤大岩遺跡があり、字宗原には弥生中期の堤宗原遺跡があります♪字池の上には池の上墳墓群があり、朝鮮系の陶質土器が出土したりもしています♪
古くからの、人々の気配を感じる事が出来る堤集落です♪
ただ、ここ平家城の城主、築城年等、記述がなく不明ではありますが、平安時代の平家の城と云われています。その根拠には乏しいというのが、率直な所であります。
この地は中世から秋月荘であり、秋月領であります♪同荘は夜須・下座両郡にまたがる北山中にあり、秋月荘の立荘は天慶元年(938年)頃と云われます♪正暦3年(992年)大宰府は検田使(役人)による『筥崎宮塔院領秋月荘への入勘を停止』しています。コレは、秋月荘は特別な存在で、他の官の干渉を受けない様にした?という事なのでしょう♪大蔵春実は秋月八幡宮を営みだし、鎌倉初頭には、その子孫が秋月荘に入部していった♪コレが秋月氏の始まりとなります♪秋月氏は大蔵一族であり、古処山城を本拠地として、戦国時代にはこの地を領し、割拠して行く訳です♪
建仁3年(1203年)大蔵一族の原田種雄が秋月荘に入部して以来、子孫は秋月氏を称しています♪秋月荘は承久2年(1220年)石清水文書では、現三輪町の依井荘と共に宇佐弥勒寺領秋月荘とあり、かつての秋月は宇佐弥勒寺領でもありました♪ただ、秋月氏との関係性は明らかではありません。調べたけど判らず仕舞いでした。宇佐神宮系だったのは、世の流れで、この頃はまだ一部、寺社仏閣が幅を利かせていた訳です♪秋月を調べる、その中に登場する人物で、源平内乱期に平家方に与同して没落した人物の中で岩門少卿種直の弟とされる在地武士の存在があり、この人物は、平家方ではあるが御家人化が進む中で、幕府直属の御家人となったとありました。これが、平家の城と伝わる由来なのでしょう。また、元寇の際には『蒙古襲来絵詞』に『筑前国御家人あきつきの九郎たねむねの兵船』が描かれていて、他にも秋月種頼や秋月種家などの名も出てきます♪鎌倉末期には秋月種秀の名もありますが、この頃の秋月氏について、どういう立場だったのか?どの様な活躍をしたのか?不明な点が多いです。
場所的な所から休松城の南西部直ぐ(直線1.5キロ位かな?)の先端部にある為、戦国時代は休松城の物見的な役割を担っていたのでしょう♪更に時代を遡ると、平家方が使っていたのか?は今は知る余地もありません。あくまで伝承の域であります。でもロマンがありますね♪
単郭で北側から西側へ腰郭があるだけの小さな城郭ですが、東側には溝跡があり、城内に入る為の動線なのか?ハタマタ、横堀なのか?調べてみたけどハテナでした。