休松城(安見ヶ城)

休松城(安見ヶ城)([秋月城  周辺城郭])

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休松城(安見ヶ城)の口コミ情報

2025年05月03日 龍馬備中守【】


福岡県朝倉市にある【休松城】♪別名を安見ヶ城、夜須見松城、茄子町城とも呼ばれる城郭は、標高300mの安見ヶ城山の山頂に築かれ、眼下には秋月街道や日田往還が走り、筑後平野が広がる、眺望のきく場所に立地しています♪

築城年代は不明でありますが、秋月24城の1城となります♪この地を領した秋月氏の大元は大蔵氏であり、秋月氏は代々名族であります♪筑前国・原田氏や高橋氏なども、大蔵一族の血筋を誇る一族で、多くの国衆を輩出しています♪鎌倉時代頃より、筑前国夜須郡秋月を本拠地として、この地を領していく秋月氏です♪

休松城での出来事としては、戦国時代の永禄10年 (1567年)休松の戦いが勃発。大友氏と秋月氏の間に起きた合戦です。
この頃の秋月氏は、安芸国・毛利氏の調略に応じて、豊後国・大友氏に反旗を翻しました。父である秋月文種や長兄・秋月晴種は、大友宗麟の猛攻を受けて自害していますが、『秋月種実』は家臣に連れられて古処山城の落城寸前に脱出し、毛利氏を頼り周防国・山口に逃走しています。

永禄2年(1559年)秋月家当主・秋月種実は、安芸国・毛利氏の支援を得て、古処山城を占拠していた大友軍を破り、本領であった筑前国秋月に復帰しています。秋月氏の旧領をほぼ回復した訳ですが、秋月種実の弟・秋月種冬は、高橋鑑種の養子として豊前国・小倉城に入り、秋月種信は長野氏を継いで豊前国・馬ヶ岳城主となり、秋月元種は香春岳城主となり、それぞれ大友氏に対抗しています。秋月氏の名が史上もっとも現れるのは、この秋月種実の代からであります。

永禄10年(1567年)高橋鑑種が大友氏に反旗を翻すと、秋月種実も挙兵し、秋月氏は休松の戦いで夜襲を敢行しています。

大友宗麟は戸次鑑連、吉弘鑑理、臼杵鑑速ら歴戦の名将に兵2万を与え、秋月領に侵攻させています。秋月領に迫った大友軍は、初めに甘水・長谷山の戦いで秋月勢と交戦⚔️秋月氏の支城である邑城を攻略。その後、更に進軍した大友軍は、休松城の攻略を開始。守将は坂田諸正でありましたが、大友勢の猛攻の前に落城してしまい、坂田諸正は自害しています。休松城の周辺に布陣した戸次鑑連は、古処山城攻略を画策するも、古処山城の守りは堅く攻めあぐねています。
戦線は膠着状態に陥る中、中国地方の毛利氏が九州への進出の気配ありとの急報を聞いた、大友氏傘下の豊前・筑前・筑後の国人衆は、動揺し適当な理由を以って自領に引き上げてしまいました。この状況を憂慮した大友宗麟の指示を受け、大友軍は一旦撤退を開始しました。

大友軍は休松の陣を引き払い撤退を開始。
復讐に燃える秋月種実は、この情報を知るや全兵力1万2千を四手に分け、問註所鑑景、内田善兵衛実久3千余騎と、綾部駿河守5千余騎で大友軍へ攻撃を行います。戸次鑑連は秋月種実の強襲を事前に察知し、3千兵を吉光の地に伏せ、反撃を開始。配下の小野鎮幸、由布惟信5百騎、一族の戸次鎮連6百騎らと共に猛攻を加えます。秋月勢の問註所鑑景は2千兵を率い、一度、戸次鑑連の本陣に攻め懸けて戦うも、多くの死傷者を出して撤退しています。

風雨の強まる中、秋月種実は夜襲を決行。2千兵を率いて臼杵鑑速、吉弘鑑理の陣に突撃しています。予期せぬ秋月勢の夜襲により大友軍は大混乱に陥り、大友軍の名だたる部将が討死し、全体での死者は400名以上となっています。
戸次鑑連の奮戦により一時、秋月勢を撃退して休松の陣からの撤退には成功したものの、その後、秋月勢は筑後・山隈城まで追撃を続け、大友軍は更なる犠牲を強いられています。

L字に築かれた安見ヶ城山の山頂300mを中心に主郭、副郭、三郭と3つの郭を配しています♪副郭は土塁囲みで南北に2ヶ所、虎口を開口し、主郭と連結します♪副郭北側には堀切を一条設け、西側には、竪堀を配します♪
主郭の南西側には堀切、竪堀を配置して、防御を展開、主郭から東側に伸びる三郭は段郭を展開、一部土塁で囲みを見せます♪三郭南側には畝状竪堀群を配し、秋月系城郭の特徴が良く出ています♪

2023年03月18日 ʀᴇᴅ副将軍


秋月氏と大友氏との激戦があった休松合戦の舞台の城跡🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。大友氏、秋月氏に利用された所謂境目の拠点。1557年、秋月氏の本拠地であった古処山城に大友宗麟が攻め寄せ、古処山城は落城。秋月文種は自刃、秋月種実は毛利氏を頼って落ち延びました。永禄年間(1558年~1570年)に秋月種実は毛利氏の支援を受けて本拠地の古処山城を奪還します。

秋月氏は勢力を取り戻し、1567年に大友氏重臣であった高橋鑑種は大友宗麟に反旗を翻した際に、秋月種実は高橋鑑種に味方して挙兵。これを受けて大友宗麟は秋月討伐のため大軍を古処山城に差し向けます。大友勢は、先陣として道場山に吉弘鑑理、福嶽城に臼杵鑑速、後陣としてこの休松城に戸次鑑連が布陣しました。

秋月氏は、吉弘鑑理、臼杵鑑速の陣に夜襲をかけます。敗走する兵を追って休松城に攻め込み大友勢を撃退しました。これが休松合戦と呼ばれる激戦です。秋月氏は、休松の戦いで勝利しましたが大友氏の勢力には敵わず、1569年には再び大友氏に従いました。休松城は秋月城の支城となり、秋月二十四城のひとつに数えられます。

見所
標高300mの安見ヶ城山に築かれています。山頂に主郭を置き、主郭から北側尾根に二郭、東に伸びた尾根に三郭が連なる連郭式。主郭と二郭は土塁で区切られ中央に平虎口が開口。二郭北側は堀切と竪堀で防御線が張られています。

三郭南側には桝形虎口、その先には畝状竪堀が配されています。遺構は薄めですが、動線を考えると結構凝った造りとなっておりマニア向けの城郭です。写真は心眼でお願いします。

行き方は、北側の国道322号から林道が通っているため簡単に辿り着くことができます。

写真
①②主郭と二郭を隔てる土塁、虎口
③二郭北側の堀切
④主郭
⑤主郭部の鋭い切岸
⑥三郭の虎口
⑦三郭南側の畝状竪堀
⑧登城口

2022年11月16日 大内周防守毛利


休松城(やすみまつじょう)と読みます。休松城は秋月氏の本拠地のある盆地南側の通り道の東側に位置する。

『筑前国続風土記』によると永禄10年(1567)に大友勢が秋月種実を攻めた際に戸次鑑連(立花道雪)が入城し、秋月勢が夜襲を仕掛け、大友勢との間で激戦となった「休松合戦」の舞台となりました。戦いは夜襲を受けたのちに鑑連は古処山城の城下まで反撃し、その後山隈城まで撤退しました。この大友勢の敗北が筑前国の情勢を不安定なものにした要因の一つと考えられます。

休松城の縄張り図は「福岡県の中近世城館跡」などに記載されている片安氏の縄張り図がありますが、実際に休松城に行き、縄張り図と比較してみると曲輪の構造や土塁、堀の数の見落としが多く見られます。

主郭北側の土塁囲みの曲輪は保存状態が良く、さらに土塁囲みの曲輪の北に接する曲輪は馬出しのような機能を持っていたことが考えられます。主郭東側の曲輪の東端には竪堀とそれから変化した虎口があり、また縄張り図にはありませんが真ん中あたりにも枡形状の虎口があります。枡形状虎口と東端虎口の間には畝状空堀が4条ほど見受けられました。

かなり技術的に優れた城郭で縄張り図で見た以上に素晴らしいお城ですのでおすすめします。

写真
 ①主郭虎口
 ②土塁囲みの曲輪
 ③主郭東側の枡形状の虎口
 ④土塁囲みの曲輪と出曲輪の間の虎口

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