休松城(安見ヶ城)
休松城(安見ヶ城)([秋月城 周辺城郭])
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休松城(安見ヶ城)の口コミ情報
2023年03月18日 RED副将軍
秋月氏と大友氏との激戦があった休松合戦の舞台の城跡🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。大友氏、秋月氏に利用された所謂境目の拠点。1557年、秋月氏の本拠地であった古処山城に大友宗麟が攻め寄せ、古処山城は落城。秋月文種は自刃、秋月種実は毛利氏を頼って落ち延びました。永禄年間(1558年~1570年)に秋月種実は毛利氏の支援を受けて本拠地の古処山城を奪還します。
秋月氏は勢力を取り戻し、1567年に大友氏重臣であった高橋鑑種は大友宗麟に反旗を翻した際に、秋月種実は高橋鑑種に味方して挙兵。これを受けて大友宗麟は秋月討伐のため大軍を古処山城に差し向けます。大友勢は、先陣として道場山に吉弘鑑理、福嶽城に臼杵鑑速、後陣としてこの休松城に戸次鑑連が布陣しました。
秋月氏は、吉弘鑑理、臼杵鑑速の陣に夜襲をかけます。敗走する兵を追って休松城に攻め込み大友勢を撃退しました。これが休松合戦と呼ばれる激戦です。秋月氏は、休松の戦いで勝利しましたが大友氏の勢力には敵わず、1569年には再び大友氏に従いました。休松城は秋月城の支城となり、秋月二十四城のひとつに数えられます。
見所
標高300mの安見ヶ城山に築かれています。山頂に主郭を置き、主郭から北側尾根に二郭、東に伸びた尾根に三郭が連なる連郭式。主郭と二郭は土塁で区切られ中央に平虎口が開口。二郭北側は堀切と竪堀で防御線が張られています。
三郭南側には桝形虎口、その先には畝状竪堀が配されています。遺構は薄めですが、動線を考えると結構凝った造りとなっておりマニア向けの城郭です。写真は心眼でお願いします。
行き方は、北側の国道322号から林道が通っているため簡単に辿り着くことができます。
写真
①②主郭と二郭を隔てる土塁、虎口
③二郭北側の堀切
④主郭
⑤主郭部の鋭い切岸
⑥三郭の虎口
⑦三郭南側の畝状竪堀
⑧登城口
2022年11月16日 大内周防守毛利
休松城(やすみまつじょう)と読みます。休松城は秋月氏の本拠地のある盆地南側の通り道の東側に位置する。
『筑前国続風土記』によると永禄10年(1567)に大友勢が秋月種実を攻めた際に戸次鑑連(立花道雪)が入城し、秋月勢が夜襲を仕掛け、大友勢との間で激戦となった「休松合戦」の舞台となりました。戦いは夜襲を受けたのちに鑑連は古処山城の城下まで反撃し、その後山隈城まで撤退しました。この大友勢の敗北が筑前国の情勢を不安定なものにした要因の一つと考えられます。
休松城の縄張り図は「福岡県の中近世城館跡」などに記載されている片安氏の縄張り図がありますが、実際に休松城に行き、縄張り図と比較してみると曲輪の構造や土塁、堀の数の見落としが多く見られます。
主郭北側の土塁囲みの曲輪は保存状態が良く、さらに土塁囲みの曲輪の北に接する曲輪は馬出しのような機能を持っていたことが考えられます。主郭東側の曲輪の東端には竪堀とそれから変化した虎口があり、また縄張り図にはありませんが真ん中あたりにも枡形状の虎口があります。枡形状虎口と東端虎口の間には畝状空堀が4条ほど見受けられました。
かなり技術的に優れた城郭で縄張り図で見た以上に素晴らしいお城ですのでおすすめします。
写真
①主郭虎口
②土塁囲みの曲輪
③主郭東側の枡形状の虎口
④土塁囲みの曲輪と出曲輪の間の虎口