鎮西原城
鎮西原城([香春岳城 周辺城郭])
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鎮西原城の口コミ情報
2023年10月22日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
福岡県の田川郡の香春町にある【鎮西原城と鶴岡八幡宮】♪為朝伝説で有名な鎮西八郎為朝(源)の居館跡と伝わります♪鎮西八郎為朝は平安時代末期の武将、源為義の八男で源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる人物です♪
仁平2年(1152年)豊後国臼杵より移住して築いた館と云われています♪
この鎮西八郎為朝は身長2m(7尺ほどw)を超える巨体で更に気性が荒くw
また剛弓の使い手であり剛勇無双を謳われました♪生まれつきの乱暴者であったとされ、余りの不良ぶりに父の源為義により勘当され九州に追放された武将ですw(為朝、13歳の時w)後には父に呼び戻され、上洛し戦う訳ですが‥‥♪
追放された初めは豊後国(現大分県)に住み着いています♪九州へ追放されながらも、自身は鎮西総追捕使(今で言う警察的な)を称して暴れ回り、菊池氏、原田氏など九州の豪族達と幾度も合戦や城攻めを繰り返し、気付いたら3年の内に九州を平らげてしまったという逸話が残ります♪
鎮西八郎為朝によるコレらの狼藉を香椎宮の神人が朝廷に訴えていて、久寿元年(1154年)に出頭の宣旨が出されてしまいますw
しかし、鎮西八郎為朝は、勿論これに従いませんw翌久寿2年(1155年)には父が解官され、これを聞いた鎮西八郎為朝は帰参する事にし九州の強者28騎を率いて上洛しています☆
京で鳥羽法皇が崩御(死去)すると、治天の君の座を巡り、対立していた崇徳上皇🆚後白河天皇の衝突は避けられない情勢となっています☆上皇方も、天皇方も名だたる武将をそれぞれの陣営に招く中、鎮西八郎為朝の父・源為義は上皇方の大将として招かれていますが、老齢を理由に再三断っていますが、遂には崇徳上皇の御所白河北殿に参陣しています♪因みに源為義の嫡男で坂東を地盤としていた源義朝は多くの東国武士と共に天皇方へ参じています!コレは俗に言う『保元の乱』です🔥
この上洛の際に、鎮西八郎為朝は、嫡子の鶴王丸に宝刀『若緑』を与えて阿蘇忠国を後見人として、この地に残しています♪
結果的に鎮西八郎為朝は父、源為義と共に戦いましたが敗れ、伊豆国大島へ流罪となっています‥‥。。一方、鎮西原城に残った鶴王丸は元服して鎮西太郎基朝と名乗りましたが、肥後国で死に、その後、数代続きましたが、応永5年(1398年)大内盛見に降って滅亡しています☆
現在、館跡は田川農林高校の敷地となっていて、一段高くなっています♪田川農林高校の門脇には案内板があります♪高校の北側(現田んぼ)は少し低くなっていて、コレは堀の名残りと云われています♪
鶴岡八幡神社は香春町の小高い山に立地します♪祭神は応神天皇、神功皇后、玉依姫命で、約850年前に鎮西八郎為朝が勧請したといわれています♪