上米多比城
上米多比城([許斐山城 周辺城郭])
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上米多比城の口コミ情報
2026年04月27日 大内周防守毛利
「かみねたびじょう」と読みます。最近見つかった城郭で、西南学院大学博物館 研究紀要第14号にて報告されました。史料には記載されてない城郭で名前は上述した論文にて「上米多比城」と報告されており、古賀市の資料館(委員会)でもその名前で通っています。
名前は上米多比ですが、位置は米多比地区と薦野(こもの)地区の境目に立地しています。そのためこの城の築城主体は城の南側の米多比氏や北側の薦野氏、もしくはその他の勢力によって築かれたのか立地だけで検討することは不可能です。
上米多比城は米多比地区と薦野地区の境をなす南東から北西に伸びた尾根の付け根の頂にあり、削平があまりなされていない主郭がある。主郭南を腰曲輪を挟みさらに南にはおよそ南北に伸びる削平された副郭があります。主郭の南東、北西及び副郭南端から南西、南には尾根が伸び、それぞれ腰曲輪や切岸、堀切が設けられています。そのためか城外のどの尾根から見ても城壁が3段に構築されているようにも見えます。敵の障壁としてだけでなく味方の火点を三段に構え、攻撃拠点を増やしたものと想定されます。
北側は上記した論文では防御施設を確認できないとされていますが、私個人的には堀切と思われる遺構がひとつは確認できました。(もうひとつ堀切というより段差を設け、その段差のところの通路を狭くしたものと思われる遺構も確認されました)
縄張りから北側の守りがほかの侵入経路(尾根)に比べると劣っており、また通路が狭いことから搦手であることが推測されます。そのことから仮説ではありますが米多比氏が一族で大友側と大内側(大内氏滅亡後は宗像氏側となる)に対立したとき、または出入りのしやすい北に面する薦野氏が南の守りとして築城されたことなどが考えられます。
アクセスは薦野城の看板にしたがって進み、出会いが辻の峠から薦野城と反対の南側の尾根を登っていくと10分前後で到着します。
写真
①主郭北側の堀切と土橋らしい遺構
②主郭
③主郭から見た副郭
④副郭南西の尾根から見た副郭と腰曲輪(間に堀切)
⑤副郭南の尾根にある堀切と土橋
⑥主郭南東の尾根にある堀切
⑦主郭北西にある腰曲輪と堀切
⑧主郭北西にある腰曲輪と堀切(城外から)









