等覚寺城

等覚寺城([豊前松山城  周辺城郭])

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等覚寺城の口コミ情報

2023年10月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】


福岡県の京都郡苅田町にある【等覚寺城】♪貫山(標高712m)から南東側の中腹に権現山(標高301m)に現在、白山多賀神社があります♪この境内一帯に城郭は存在し中世には等覚寺城として機能しています♪
別名を山口城とも呼ばれます♪

築城年については不明です☆
京都郡誌には『応永中、一山罹兵火、僧徒多戦死、於是、寺務大廃』更に『応永丙子年、当山五拾二世の座主尭賢の時、兵火に罹り、社殿堂塔悉く焼亡す』、『等覚寺座主・尭賢大僧正は、大友左近将監親実の弟なるを以て、山坊山徒等、一千四百人を率ひて、同郡松山城に応援し、苅田潟に戦、大内軍の為めに戦没す』と記述があります☆

以下、こんな感じですかね☆応永年間の兵火では、普智山等覚寺は全焼し、応永5年(1398年)豊後・大友氏と周防・大内氏の間に起こった、苅田潟の合戦では、等覚寺座主・尭賢は大友氏の援軍として馳せ参じますが、コレに敗れています‥‥。。

僧兵を用いて城郭とする☆所謂、城郭寺院の色が強い事を感じさせます♪等覚寺一帯に武装勢力があったのでしょう♪ただし、今ありし、城郭の縄張りからは、戦国時代の後期まで使用されたであろう、畝状竪堀群をビッチリ、配置している♪この山間の北方には、畝状竪堀群を200条以上配置する長野氏の長野城です♪長野氏の南方の守りの要というのは容易に想像がつきますね♪

戦国時代の城主としては、豊前国人領主・長野三河守助守とあり、畝状竪堀群を造り込んだ城郭は正にと言った内容でありました♪
調べてみると、長野氏は企救郡長野にある、長野城と筑前との国境にある小三岳城、大三岳城とこの、等覚寺城を軍事拠点としていた様です♪

戦国時代、豊前のエリアは大友氏🆚大内氏、更には大友氏🆚毛利氏の抗争が頻発しています☆乱世になるに連れて等覚寺は寺院から城郭へと発達して行ったのでしょう♪
調べてみると、永禄11年(1568年)毛利氏の大軍が豊前に送り込まれ、長野氏は大友氏方として戦っています☆この毛利方から『長野退治』と呼ばれるコノ戦いは、毛利元就の子、小早川隆景、吉川元春が、渡海し、長野氏の居城は次々と攻撃を受け、落城し、等覚寺城も落城‥‥。その後、大友氏🆚毛利氏の豊前抗争は続き‥‥。天正元年(1573年)長野助守は大友宗麟の命により京都郡、仲津郡の2郡を守備しています♪

見所は白山多賀神社の北側斜面の畝状竪堀群♪南側斜面の畝状竪堀群♪短めの畝を付けて、一段犬走りを挟み、更に畝状竪堀を入れ込む♪特徴的な造りとなっています♪

景色の写真は等覚寺城方面から見る行橋市、更には瀬戸内海が広がります♪周防国は目と鼻の先♪海路を南下すると豊後水道へ繋がります♪

2021年04月30日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
「豊前国戦国事典」には、応永年間(1394-1426)、城主は等覚寺の座主堯賢で、大友氏一族の城だったようです。

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