大松山城

大松山城([備中松山城  周辺城郭])

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大松山城の口コミ情報

2023年03月05日 龍馬備中守【】


岡山県高梁市の【大松山城】備中松山城の背後、標高480mの臥牛山山頂に築かれた中世山城です♪臥牛山は大松山、天神の丸、小松山、前山の峰の4つの峰から構成され、地元では『おしろやま』として親しまれています♪備中松山城の水の手から大堀切を挟み、その先が大松山城です♪築城主は秋庭重信♪備中国は上房郡有漢郷の地頭であり、元々は相模国の武士♪承久3年後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権である北条義時に対して討伐の兵を挙げた承久の乱の功績によりこの地を賜りました♪はじめに台ヶ鼻城を築き、延応2年頃に大松山城を築城しています♪そんな大松山城♪1番大きな戦としては、やはり備中兵乱☆コレは三村家親🆚毛利氏・宇喜多氏の間に起きた争いです☆イザコザが複雑に絡み合う中で備中国に勢力を確立した三村元親は、主家である安芸国・毛利氏から離反☆これは宇喜多直家に父・三村家親を暗殺された事に始まります☆毛利氏が宇喜多氏と手を結んだ事により、毛利氏にはついていけない!と離反した訳です☆三村氏の離反で毛利本隊は備中国へ侵攻を開始☆三村元親により要塞と化していた本城を攻める事は難儀であると判断した毛利軍は、周囲を固める支城群を次々と落としていく作戦を取っています☆近隣の杠城を陥落させ、三村元親の弟・三村元範を自害に追い込みました☆
その後も毛利軍は怒涛の勢いで侵攻☆
三村軍の三村兵部は猿掛城の守備を諦め大松山城へと後退☆更には支城群の国吉城、美袋城、鬼身城が落城☆支城群を一通り落とした毛利軍はいよいよこの大松山城を取り囲み攻撃しましたが、毛利方に被害が出た為に持久戦に切り替えます☆
備中国から美作国の境に掛けて広範囲で麦刈りを実施☆兵糧を断ち、追い込みます☆城内で寝返るものが出始め遂には陥落してしまいました…三村元親は妻子・家臣を守る為に覚悟を決め、毛利軍に使いを出し切腹を願い出ました…☆毛利氏はこれを認め、三村元親は旧知の間柄だった毛利家中・粟屋元方が見守る中、辞世の句数首を残し松連寺で自刃しました☆その句の1つが…
『人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に』戦国時代後期には城域を小松山まで拡大した大松山城☆後に入部した毛利氏が近世城郭へと変貌させていく☆江戸時代に小松山に天守が♪中心地の位置が変わっていきました☆更に山麓の御根小屋に御殿が築かれ大松山城はその存在価値を失っていきました☆

2022年02月27日 織田上総介晃司
今回、備中松山城より奥に進み登城。別ルートとして大松山吊り橋からの登城もあります。

大松山城と備中松山城(小松山城)の線引きはどこか?
備中兵乱の戦況やその後の備中松山藩の状況により、この口コミでは土橋で線引きして、土橋までを備中松山城(小松山城)。相畑より先を大松山城としました。

大松山城は中世の色を濃く残しております。今の大池や番所跡の石垣・切通堀切は中世以降のような気がしますが、あえて大松山城として写真を投稿しました。

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