真坂館
真坂館([姫松館 周辺城郭])
姫松館 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「真坂館」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
真坂館の口コミ情報
2025年04月16日 国府左京大夫城介
姫松館に隣接する一迫狩野氏惣領の居城
【歴史】
築城年代は不明だが、この地を治めた一迫狩野氏が築いた。
狩野氏は伊豆・狩野出身で、文治5年(1189)の奥州合戦において、狩野行光が戦功をたて、源頼朝から一迫川流域を給わった。
文和3年(1354)に斯波家兼(大崎氏初代)が奥州管領に任命されると、奥州へ下向し、狩野詮眞もそれに伴い下向した。そして、栗原郡一迫の三分の一を領し、真坂館を居城にしたという。室町時代中頃には、大崎教兼(大崎氏第7代)の三男・刑部少輔(名前不明)を養子に迎え、大崎氏一門となった。そして、刑部少輔が領地である栗原郡一迫にちなんで、一迫氏と称すようになった。
戦国時代に入ると、大崎氏一門でありながら、天文3年(1534)から同5年(1536)の天文の内乱や、天正16年(1588)の大崎合戦では、反大崎氏の立場であった。天正18年(1590)の奥州仕置により、領地を没収されたが、伊達政宗に召し出され、地着座までなったが、早々に無嗣断絶になった。
天正19年(1591)伊達氏の領土になると、宿老である富塚宗綱が真坂館に入り、享保3年(1718)に重標(しげたか)が改易されるまで、富塚氏が在所していた(正保元年(1644)に、富塚重信が駒ヶ嶺城の城主となっているが、真坂館には重信の墓もあることから、この地を継続して治めていたと思われる)
富塚氏が改易されると、一門の白河村親が真坂館に入り、そのまま白河氏が領主となって明治維新を迎えている。
【遺構】
姫松館の西850m程に位置し、一迫川の北側にある丘陵(標高98m/比高50m)に築かれている。
東から3つの曲輪が土橋で並列に接続されており、地元では東館、中館、西館と呼ばれている。
東館と中館の間には大きな堀切があり、完全に切断している。また、中館・西館の北側を中心に大きな腰曲輪が設けられている。
特筆すべきは西館であり、明確な虎口が2か所設けられている。一つは東側にある虎口で、一迫川へと降りていく坂虎口となっている。もう一つは北西側にある虎口で、腰曲輪と繋がっているものであるが、小さな曲輪間を縫うように登る枡形虎口となっている。
東館には、伊達騒動を基にした「伽羅先代萩」の登場人物である政岡のモデルの一人・白河義実夫人の墓と、真坂館城主の富塚重信夫妻と兄信定の墓があります。
【感想】
見所は、東館と中館の間にある巨大な堀切と、西館の虎口になるかと思います。特に、西館の北西側の枡形虎口がお薦めですが、藪があるせいで若干分かりにくいのが残念です。
政岡の墓がある東館と、鹿島神社跡がある西館は、藪が少ないですが、中央の中館とそれを取り巻く腰曲輪はやや藪が強く遺構が分かりにくい箇所もあります。
姫松館と比べると、だいぶ小さな城にはなりますが、思った以上に良好な遺構が残っており、姫松館とセットで訪れるといいと思います。ただし、藪が少ない時期に限りますが…
登城方法は、麓の龍雲寺から行くのが分かりやすいと思います。ただ、真坂館としての案内板はなく、「政岡の墓」という案内板があるので、それを辿れば東館に到着します。また、西館にある鹿島神社の参拝路があると思われますが、そちらは確認していません。
【アクセス】
くりはま高原駅から、レンタサイクルで約1時間。
【写真】
①東館
②東館と中館の間の堀切
③西館の土塁
④西館の虎口(東側)
⑤西館の虎口(北西側)
⑥西館の切岸
⑦白河義実と政岡の墓
⑧龍雲寺山門