前期超昇寺跡
前期超昇寺跡([超昇寺城 関連施設])
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前期超昇寺跡の口コミ情報
2025年03月10日 土支田大膳大夫
超昇寺は「超曻寺」とも書き、平城天皇第三皇子の眞如法親王(高岳親王)の発願とされる。史料上に登場するのは『日本三代実録』貞観二年十月条で、法華寺、超曻寺に奈良の水田55町4反288歩を施したという内容である。永延年間(987~988)には興福寺の僧、清海上人により法華三昧堂が建立された。その後、長徳2年(996)に清海は浄土を感得し、浄土三曼荼羅の一つである清海曼荼羅が作られる。
しかし、治承4年(1180)に超昇寺は平重衡の南都焼討で焼失する。その後、治承6年(1182)に中御門家忠によって再興される。『大乗院寺社雑事記』によると長禄3年(1459)に本堂、塔坊が焼失した。また、この頃には興福寺の門下に入ったようである。そして、天正6年(1578)に井戸若狭守の兵火によって寺は頽廃した(創建~天正6年までの超昇寺は前期超昇寺と呼ばれ、佐紀神社(亀畑)の北側一帯にあった)。この前期超昇寺の有力者が超昇寺城城主の超昇寺氏である。
その後、江戸時代に入ると江戸幕府5代将軍徳川綱吉に仕えた隆光が寺を再興した。しかし、この再興された超昇寺は明治10年頃に廃絶する(再興~明治10年頃までの超昇寺は後期超昇寺と呼ばれ、佐紀神社(亀畑)の南側一帯にあった)。
現在、前期超昇寺の遺構は護摩堂跡付近に面影を残す程度で、後期超昇寺の遺構は隆光の墓程度である。しかし、前期超昇寺の近隣にはかつて字「門外(もんのそと)」、字「寺畑」、字「本堂畑」、字「塔ノ坊」、字「塔坊」の地名があり、仏像などは近隣の寺院やなら仏像館などに遷されている。また、この近隣からは中世の瓦が出土しており、それら瓦には「超曻寺」「興福寺」の文字が確認されている。