此隅山城

此隅山城([山名氏城館  周辺城郭])

山名氏城館 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「此隅山城」の地図・口コミがご覧頂けます。

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此隅山城の口コミ情報

2025年03月09日 おだうじ弾正少弼


【此隅山城】
城郭規模◎
歴史的価値◎
整備度合い○
アクセス△
遺構保存状態◎

最近(2024.3月頃)に整備が入った様子で、かなり登山道が分かりやすくて良かった。

いずし古代学習館裏の登山口より入城

登山道沿いには堀切や畝状竪堀など目を引く遺構も多く、また気合いを入れれば登山道から逸れた千畳敷方面へ曲輪郡の遺構も確認できる。(斜面を急降急登)

アライグマと遭遇した。

2024年11月28日 ʀᴇᴅ副将軍


11国を支配した山名氏の但馬支配の拠点🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。文中年間(1372年〜1374年)に山名時義により築かれたと云われます。
山名氏は、清和源氏の庶流で新田義重の庶子である新田義範が上野国多胡郡山名を与えられ、山名三郎を称したことが始まりとされます。
元弘・建武の争乱において、山名政氏と嫡男の山名時氏は新田義貞に従い倒幕の功労者として大きく勢力を拡大していきます。
この頃に此隅山城は山名時義により築かれたと考えられています。
全盛期には全国66か国のうち11か国で山名氏が守護職となり六分一殿と呼ばれるほど勢力を拡大。
1467年の応仁の乱においては、山名宗全は西軍の総大将として東軍の細川勝元と対峙しました。山名の各領国から2万6千の軍勢が此隅山城に集まり、京都へ出陣したとされます。
戦国時代に山名至豊・山名誠豊・山名祐豊の三代の居城となりますが内部抗争や有力家臣の自立により山名氏の守護としての地位は落ちていきます。
1569年、羽柴秀吉により攻められ此隅山城は落城。城主の山名祐豊は堺へ逃れ、その後に堺商人の力を借りて但馬に復帰。
1574年、新たにより高所で堅固な有子山城を築いて居城を移し、此隅山城は廃城となりました。

見所
標高約140mの独立丘陵上に築かれています。
山頂部と南、北西、北東へと派生する尾根上に郭を展開する巨大山城です。
築城は南北朝時代の山城とされますが、現在の遺構は山名氏末期である16世紀後半のものと云われています。
国史跡に指定されており整備されていますが、千畳敷方面と西側尾根は未整備で立入れませんでした。

2020年02月10日 ともっち♪河内守


此隅山城♪主郭にある説明板です♪
勉強不足にて入口わからずでしたので、有子山城、此隅山城、各主要登城口をスポット登録しました。登城の参考になりましたら嬉しいです。

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