武田勝親の墓
武田勝親の墓([塚口城 寺社・史跡])
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武田勝親の墓の口コミ情報
2026年02月11日 尼崎城安芸守一口城主
2月7日、尼崎市の園田地区を訪れていた際にGマップ上で武田勝親公のお墓を発見🪦猪名川公園内にに昭和46年撮影の上空写真があったのでGマップと照らし合わせて木の枝でお墓の辺りを指し示してみました(写真①)
お墓の北側の猪名川公園からアプローチして、新南園橋を園田方面に下った利倉西町交差点🚥からお墓方面を眺めてみました(写真②)写真②で見えている鉄塔の左(東)側のドラッグストアの隣の建物の角を南に曲がった所に墓地(写真③の塀の内側※鉄塔との位置関係が分かればと鉄塔も映るように撮ってみました)はありました。扉を開けて墓地に入り説明板(写真④)や墓地全体(写真⑤)を見学。花が生けているのが印象的で🪻今も地元の方々に大切にされている様子が伝わってきました🪷勝親公のお墓(写真⑥)をお参りすると、お墓の後方に武田菱の瓦があったのでもしかしたらかつてはお堂が建っていたのかもしれません🤔勝親公のお墓の側面に勝親公の生涯について刻まれたと思われる墓碑がありました。※断片的には読める漢字はあったものの全体的な意味は不勉強で分かりませんでした😢以前、『尼崎百物語』という本を購入していたことを思い出し📕めくってみるとこのお墓のことが取り上げられ、墓碑の解説があったので下記に紹介。「・・・武田勝親は甲斐の後主(勝頼)の季子なり。状を按ずるに、天目敗績の日、公生まれて三歳なり。其の臣栗原左衛門某といふもの、公を負ひて城州(山城国)に奔り、これを醍醐の密教院に託す。院主は後主の姻なり。既にして梢々長ず。たまたま斎藤氏嗣無し。公に請ひて嗣と為し、姓斎藤を冒す。戸田侯に尼崎城に仕ふ。遂に之二臣たるを恥じ、乃ち致仕し、摂州椋橋荘富田村に入り、以て浮屠(僧侶)に隠し、名を変じて善悦と曰ふ。状の戴する所、是れに止まる。天和壬戌六月十九日、廃して富田に死す。年百三なり。宅の北に葬る。」天和壬戌を確認してみると天和2年/1682の徳川綱吉公の治世でした。天目山の戦いの年が天正10年/1582なので3歳の時に逃れてきた後100年もの長寿を全うされた人物であることが分かりました。尼崎市内で武田氏関連の史跡に出会うのも驚きで、戦国騒乱期から江戸時代五代将軍徳川綱吉公の時代までの生涯を送られた方がいらっしゃったのも驚きでした‼️









