石見館

石見館([物集女城  周辺城郭])

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石見館の口コミ情報

2025年12月30日 摂津守大和繩


【土豪・地侍】
15C後半〜小野氏

【写真】
①甕(入口右)
②応仁・文明の乱の焼土跡

【東西両軍】
西岡は応仁・文明の乱の頃、東西両軍による補給路の争奪地となり、やがて合戦へと至ります。
まず、応仁元年八月(1467)に大船団を率いて上陸する西軍の大内・河野氏に対し、東軍は迎撃のため尼崎や野田(大阪市福島区)など大阪湾岸の各所に細河・赤松氏の軍勢を配備します。
大物浦船戦図(複製)
(尼崎市立歴史博物館)

【写真①】
推測ですが甕付近の下に溝が通っていて途中で止まっています。西部の張り出しにあった堀とは無関係です。

【写真②史料】
そのように伺ったのですが、部分的であり疑問です。しかし史料と一致するという前提で話を進めます。
真如堂縁起絵巻
(真正極楽寺真如堂)

刀・槍の傷跡
(大報恩寺千本釈迦堂)

天龍寺旧境内出土焼瓦片
(京都市考古資料館)

史料上の初見は長岡京市奥海印寺の寂照院仁王像胎内納入結縁交名になります。
康永三年十月(1334)
石見里68名・上里44名

(野田泰忠軍忠状)
寺戸の武士で文正二年正月(1467)から文明三年七月(1471)にいたる軍忠を33ヵ条に纏めた文書。
紙の継ぎ目の裏に細河氏の奉公人である飯尾氏の花押があり正式な手続きにより確認されたことを示している。
(文明二年)
同四月十四日、於勝龍寺搦手北之口合戦仕、
安富又次郎相供、焼落馬場并古市、
御感状在之

同十六日、山名弾正殿御勢者、被取向勝龍寺、
西岡中脈之輩者、安富又次郎 四宮四郎右衛門尉相供、打出西岡御敵之在所、
上里・石見・井内館令放火
於向日河原合戦仕
御感状在之

右 所々忠節 大概注進
如件
文明六年三月 

一見了

同四月十四日勝龍寺搦手北之口に於いて合戦仕る。
安富又次郎と共に馬場并びに古市を焼け落ちき。
御感状之あり。

同十六日山名弾正殿の御勢は勝龍寺に向ひて取らる。
西岡中脈之ともがらは安富又次郎・四宮四郎右衛門尉と共に西岡御敵之在所に打ち出でて、
上里・石見・井内館を放火せしむ。
向日河原に於いて合戦仕る。
御感状之あり。

(訳)
勝龍寺の搦手北之口に於いて合戦仕る。
安富又次郎と共に馬場并びに古市を焼き払った。
戦功を証する文書を賜る。

山名弾正殿のお味方は勝龍寺に出陣し奪取した。
西岡中脈之軍勢は安富又次郎・四宮四郎右衛門尉と共に西岡の御敵之在所に打って出て上里・石見・井内館を放火した。
向日河原に於いて合戦仕る。
戦功を証する文書を賜る。

右の内容は各所での忠節
おおよその内容を関係筋に御報告申し上げます。
以上のとおりです。

承認しました。

(解説)
御敵とは親征を意味しますが小領主を相手に公方様の敵と訳すわけにはいかない、普通、敵と訳される。中脈とは桂川流域を指し西岡と同じ意味を持つ。

◯例外◯
天文日記
天文六年十二月九日条
将軍家へ献金せよとの義晴の命令に本願寺は財政難を理由に拒否。御敵に指定されそうになった一件。

(神足友春等連署状)
長亨元年十一月三日
(1487)国宝
東寺百合文書
郷々出銭・惣國の大義への対応として東寺領上久世庄の荘官である寒河家光に宛てた6名の連署書状で小野太郎左衛門尉の花押がある。
この前後の時期に小野性を名のる地侍が石見と上植野におり、どちらかとみられる。

(久我家文書第一巻)
永正年間
(1504〜1521)
一石三斗 文明三年ヨリ
石見小野押領

公家の久我家の所領を許可なく20年以上支配。

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