山口城
山口城([禅定寺城 周辺城郭])
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山口城の口コミ情報
2025年01月21日 ʀᴇᴅ副将軍
神君伊賀越えの舞台
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。1570年〜1580年頃に山口秀康により築かれたと云われます。
在地土豪であった山口秀康は織田信長の家臣となり、山城国最南端の交通の要所として築城を命じられ築いたのが山口城とされます。
1582年に本能寺の変で織田信長が没すると、信長の招きにより堺で畿内を見物していた徳川家康は三河への帰国を目指します。徳川家康の案内役として同行していた織田家中の長谷川秀一に協力を求められた山口秀康は徳川家康一行を護衛。
翌日には田原郷に入ったとされ、山口城で昼食をとり、馬を乗り換えて、山口秀康の父である多羅尾光俊がいる信楽へと向かったと云われます。
その後、山口氏は関ヶ原の戦いにおいて西軍に付き改易。山口城は廃城となった様です。
伊賀越えや山口氏に関する資料は幾つもあり諸説あります。それにしても多羅尾光俊の三男の山口秀景と六男の山口秀康がややこしくて混乱します。
見所
極楽寺の東側が城域とされますが、現在は茶畑となり遺構は消失。
案内板と伊賀越えの道の幟が立っています。
2023年08月27日 課長大和守Ver.B
山口城は別名郷ノ口城、宇治田原城とも呼ばれ天正年間初頭に山口甚助秀康により築かれたと見られ、その後関ヶ原合戦にて山口氏が滅んだことにより城も廃されたようです。
神君伊賀越えのルート上且つ家康が休息を得た地でもありますが遺構はほとんど残っておらず、僅かに堀であったという水路や段丘状の茶畑とその周辺の地形に面影を見るのみです。
なんでも第二次大戦直後までは石垣も残っていたようですがその後水害により消滅したとか…
またすぐ脇にある極楽寺の門が裏門を移築したという伝承があるようですが見る限り古さを全く感じられません(^^;
ただ近くの私有地には家康が歩いたという古道が(宇治田原町内には戦国期の地形が八割残っているとか!)現在でも残されているらしいので是非公開してもらいたいところです☆
城跡は郷ノ口郵便局西側手前の路地を北へ入ったところで交差点には城跡への看板があります。
この先湯屋谷や遍照院等伊賀越えの要所要所には説明板や幟も立っていますので伊賀越え巡りの一環として訪問されてみては如何でしょうか。