本丸主郭
本丸主郭([静原城 遺構・復元物])
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本丸主郭の口コミ情報
2019年05月30日 陸奥守たろす
静原城は公式資料等がなく城郭の名称は様々な呼ばれ方がされているが、ここでは地元「静原の里ワークショップ」作成の案内板から抜粋し紹介する。静原城は城谷山(標高474m)頂上付近と東南側に伸びる尾根の下方先端部に築かれた戦国時代の山城。
15世紀末~16世紀末の戦国時代、足利将軍家の膝元である京都周辺には地域を支配する土豪達により多くの居館や山城が築かれたが、静原城は西方の鞍馬街道と東方の敦賀街道を結ぶ軍事的にも重要な地点に築かれた。
静原城は左京区の岩倉に小倉山城を築いた山本佐渡守尚親が文明年間(1469~86)に支城として築いた。あるいは二代後の山本対馬守資幹が明応年間(1492~1501)に築いたともいわれ、記録上では室町時代の「兼右卿記」に弘治3年(1557)三好長慶が山城50余城に夫役を課して築城し土豪山本氏が守備を担っていた山城とされる。
元亀4年(1573)7月には織田信長により将軍足利義昭が京都から追放されたが、「信長公記」によると天正元年(1573)10月8日、織田信長の命により明智光秀の攻撃を受け3ヶ月の攻防を経て落城した。
頂上の主郭(本丸)は階段や縁石などの石材が残り、周囲に曲輪を巡らせて厳重に防御、さらに三方に伸びる尾根上にも幾段かの曲輪があり、北西に続く尾根には堀切や土塁を設けて敵を遮断する。
一方の静原集落の東北尾根集落の二の丸跡は街道を北から見張る位置にあり、尾根の先端部斜面を切り盛りして造成し、竪堀や土塁を設けて大小多数の曲輪を造りだし、法面や階段部には石垣を築き、山頂の本丸に続く尾根の北側には大きな堀切が設けられている。
城郭には一部に石垣などの石材が残っているが、京都市周辺の戦国期の山城に石垣は珍しく、落城後に明智光秀により築かれた可能性もある。
※(注)静原の里ワークショップでは山頂の城郭を本丸、南側に下った城郭を二の丸とするが、別の意見として本来の静原城は山頂部を示し、南側の城郭は石垣が多様されていることから明智光秀により新たに築城された別城または支城と見る意見も見られる。