千村氏屋敷跡

千村氏屋敷跡([久々利城  寺社・史跡])

久々利城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:寺社・史跡)、「千村氏屋敷跡」の地図・口コミがご覧頂けます。

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千村氏屋敷跡の口コミ情報

2025年09月20日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、おいらはアプリのイベントで再び久々利城を訪ねる事になったよ。何回来ても構わない素敵なお城なんだけど、今回のメインはこちらに振ってみた。そう、みんなが通り過ぎるあの物件だ。

千村氏屋敷は久々利城の西南西約0.3km、久々利川北岸(右岸)、標高約131mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地は西流する久々利川が丘陵地帯を抜ける場所であり、周辺一帯は小規模な扇状地、沖積地の最奥部にある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は各種イベントに積極的なめぐら〜さんなら知ってるやろ。

築かれた年代は慶長八年(西暦1603年)、お住まいになられていたのは千村氏(平右衛門家)だが、屋敷地とはいえ代官所を兼務、即ち、陣屋でもある。

慶長五年(西暦1600年)の「関ヶ原の戦い」において、東軍の木曽谷の通行を可能たらしめたのは、山村甚兵衛良勝、千村平右衛門良重等の尽力による。この軍忠により両名を中心とする木曽衆は、美濃国恵那郡、可児郡、土岐郡内の各所、合わせて十八ヶ村、一万六千二百一石二斗七升を宛行われた。「木曾家伝集」には、「慶長六(西暦1601年)辛丑年十一人の居所これなくと願奉り屋敷拝領仕り度旨なり、幸濃州可児郡に久々利と云う所あり、住居せしむべき由仰せ」とあるそうで、これ等、散在地の内から木曽衆の在所として久々利が定められ各々が屋敷地を拝領していた事が判る。

千村平右衛門良重は、散在地の各所、合わせて四千六百石余を宛行われた。慶長八年(西暦1603年)、伊那代官を命ぜられ(榑木山奉行として上伊那の里方五ヶ村、下伊那の山方六ヶ村を差配していた。)、遠州船明村の榑木改役を兼任している。

元和元年(西暦1615年)、木曽が尾張藩に加封されると木曽衆は同藩の附属となるが、良重は遠隔地となる伊那郡の差配が難しくなる事を理由にこれを嫌がったらしい。このため尾張藩藩主、徳川義直は、将軍、徳川秀忠に良重の帰属を計らうよう談判に及んでいる。結局、元和五年(西暦1619年)、秀忠の命によって幕府直臣(表交代寄合並)の身分のまま尾張藩に附属する事となった。

屋敷の現況は…信濃の物件じゃないんで現地に赴いて自分の眼で確認してくらさい。説明板を見れば屋敷地の全貌は容易に把握出来る。

木曽の出身とあって各所の榑木山奉行の役目を務めたのは適任であったと言うべきであろう。榑木山奉行は即ち、材木奉行の事であり、幕府蔵入地の御料林を管理し、採伐から搬出に至るまでを一手に差配する奉行の事を言う。

「敬公實録」、元和元年(西暦1615年)乙卯の条には、「十日、東照宮(徳川家康)至名古屋、公(徳川義直)出迎之、東照宮留数日指図築國城外郭事、問原田右衛門守次曰、宰相(徳川義直)成婚之後厨中一日所費幾何、對曰金一枚、於是𡑭封木曾及美濃地三萬二千二百石餘、盖以駿府、出羽秋田興木曾各一日一枚故也、召山村甚兵衛良勝及男七郎右衛門良安、千村平右衛門良重吉、以𡑭封木曾、但材木有時供 幕下(公儀)之用也、於是山村父子始為 公臣、十一日、東照宮以美濃地三萬二千二百石餘𡑭封、八月十二日、濃州高三萬弐千貳百八拾貳石四斗五舛七合、但川並(美濃国内木曽川沿いの地である。)及木曾御拝領云々、」とある。大意としては…

名古屋に逗留し名古屋城の外郭の普請を指図していた徳川家康が、尾張藩奉行の原田右衛門守を召して、徳川義直成婚後の台所の費用を尋ねたところ、右衛門守が一日黄金一枚程と言上したため、家康は木曽は運上一日黄金一枚の所であるとして義直にこれを加増した。又、山村甚兵衛、同七郎右衛門、千村平右衛門を召して、木曽を義直に加増したが、材木については公儀の御用にも相立つべく旨心得よと仰付けられ、三名が尾張藩に附属する事を申し付けられた。となる。

千村平右衛門良重は幕藩両属する極めて異例な立場にあったが、これを可能たらしめたのは上記事由による。尾張藩への附属を命じながら、公儀の御用木を差配する榑木山奉行をそのままとしたのは家康の御意向でもあった訳だ。

※慶長五年以前の千村氏については、武居城のリア攻めマップにある贄川の千村氏屋敷を参照して下さい。

※尾張藩附属後の千村家は大寄合に列せられたが、同家への手形の差し出しを命ぜられた他の木曽衆、謂わゆる久々利九人衆とは不和となっている。組下に入る事を嫌ったのであろう。

※久々利の屋敷地は名古屋への定住を求められた後も存続している。在所御暇三十日(年間に六十日となるんだそう。)を願い出たそうだから、年の六分の一は久々利に住していた事になる。

2025年09月01日 猫耳萌え鮭延リベンジ


市指定史跡 千村氏屋敷跡
千村氏は、関ヶ原合戦の後に、久々利村を含む4600石余を与えられ、直参旗本、尾張徳川家の家老として、明治維新までこの地に屋敷を構えていました。久々利には、山村家や同心屋敷も置かれ、一つの政治拠点ともなっていました。
千村氏の屋敷は『濃州徇行記』によると、東西約300㍍、南北約270㍍あり、「郭外濠ありて城郭の如し」と記され、上屋敷と下屋敷、庭園をもつ広大なものでした。
上屋敷は、この場所にありましたが、今では石垣の一部が現存しているにすぎません。上屋敷には20を超える部屋があり、政務の場と奥向きの生活の場に分かれ、中奥でつながれていました。政務の場には、家老の部屋や勘定所などがあり、役所として執務が行われていたため、「久々利役所」と称されました。
また、上屋敷の西側には下屋敷があり、隠居や部屋住みの者の生活の場として用いられました。その北側には、回遊式庭園「春秋園」が付随し、今なお四季折々の美しい景色を見ることができます。
また、千村家の菩提寺である東禅寺には、千村家歴代当主の墓石が林立し、千村氏の権威と格式の高さがうかがえます。
平成二十六年  可児市教育委員会

案内看板の後ろにある石垣が、現存する石垣だとすると、現在道路になっている場所に濠があったのだろうか?

2022年12月05日 ほりーないと信濃守


千村氏は、関ヶ原の合戦の後に、久々利村を含む4600石余を与えられ、直参旗本、尾張徳川家の家老として明治維新までこの地に屋敷を構えていました。(案内板より)

案内板がある場所には石垣が残り、東側の可児郷土歴史館などが上屋敷になります。下屋敷に設けられた中国式の回遊庭園「春秋園」が残っています。春秋園は県道を通す時に半分ほどになりました。案内板から西側へ歩いていくと城下町の面影があります。

木曽氏末裔の千村氏は久々利に屋敷を構えた後も信濃国との繋がりがありました。信濃伊那郡の幕府領十一か村と榑木支配を担わされた千村氏の代官所が長野県飯田市の飯田城下町にあり、飯田役所と呼ばれていました。飯田市の伊豆木小笠原家9代長計の室(妻)は久々利の千村家から輿入れしました。その時のお駕籠が旧小笠原家書院に展示されています(撮影OK、投稿不可)

春秋園の北側にある東禅寺に千村家の墓所があります。東禅寺からも久々利城の登城口があり、周遊登城路となっています。周遊の後に千村氏屋敷跡に寄り道できます。

2022年11月22日 【城郭道】たっきー


【久々利城の目の前にある陣屋】
千村氏屋敷、岐阜県可児市。久々利城の目と鼻の先(場所次第で城内)にある千村氏の屋敷です。木曽氏の末裔で、江戸時代は4400石を拝領していました。現在、庭園がひっそりと残っています。これは必見。石碑、説明板も。下調べしてから行くべきだった…。

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