上野城
上野城([小島城 周辺城郭])
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上野城の口コミ情報
2025年05月08日 しぇるふぁ加賀守
揖斐川町指定史跡の城郭跡です。住宅地の中にポツンと標石柱があります。城跡は農地化または宅地化されており、主だった遺構は見当たりませんでした。(おそらく破壊されたか畑下に地中化されていると思われる。)
訪問時の注意事項として、閑静な住宅地内にあるので、住民の方などに対面したら失礼のないように見学をお願いします。また、城址のほぼ全てが私有地と思われるので、勝手な立ち入りや住宅が映り込む撮影等をやらないように気をつけて下さい。
すぐ隣に最近設置されたように思われる真新しい案内標柱がありました。案内標柱の方にはQRコードがあり、かざして検索すると詳細な解説ページが表示されます。以下、その解説ページの解説文を原文ママで記します。
【解説ページより】
揖斐川町上野区字城山地内、揖斐川及び粕川により形成された河岸段丘上の南東端部付近の道路端に「町史跡 上野城趾」の石柱が建てられている。以前生えていた木も現在は伐採され、僅かに根部分が残っている。石碑の背面辺りは、荒蕪地となっている。
宅地化される以前、石碑の東側、段丘端部に近いあたりには、北から南に向かって中約7m、長さ約40mの弓型をした堀が残っていたという。深さ2~4mを測り、北側は浅く南側は深かったとの事である。尚、北から少し南に下がったあたりの堀の中に土盛りがあったという。この土塁に沿って「との街道」と呼ばれる細い道があった。
【追記・史実など】
山洞の野原義氏所蔵の系図によれば、「藤原鎌足二十五代の子孫に、野原修理亮為勝(のはらしゅうりの
すけためかつ)なる人がある。その妻は、市橋城主市橋長久の娘で、子息を才勝といったるまた、為勝は、弟野原小十郎吉輔(のはらこじゅうろうよしすけ)を上野城に居らしめた」とある。これは応永年間(1394~1427年)の事で、その子孫がこの城を支配していたと伝えられている。為勝は、別名小池藤内と称し、土岐本家康政に仕え所々に従軍して、功績を立てたとあるから、小島庄の内、上野地区辺を領有していたとも考えられる。
それでこの地に城を立てて分家したものか、また為勝の長子才勝は、別名右馬の二郎小吉入道浄蓮と号し、父に劣らぬやり手で、野原氏一統の統領として、幾多の戦功を積んだ事が書かれているので、この人が叔父を助けて久瀬川(揖斐川)の荒地を切り開いたと考えてみると、今の才勝河原の名前も出所が分かるような気がする。因みに、野原系図を見ると、この才勝の孫が彦にあたる人で小池藤内小池備後守という人は、織田軍機や太閤記には、指折りの将に数えられている。
昔、この地に城のあった頃、この一帯は現状より東方に高台が続きのびていて、今の上野区川原の辺りは、深い土中であったのが、天永3年(1112年)の大水で久瀬川(揖斐川)が切れ込み、城址の七分通りが川原になり、城の東南にあった石戸村もこの時流出したという。今でも上野から溝尻裏にかけて、石戸流跡という地名が残っている。また、河原町の(西)即ち上野城地の崖下は、明治39年の水に久瀬川(掛斐川)が溢れてこの所を流れたという。(地元資料の出典より)