説明板(関城の由来)
説明板(関城の由来)([関城 碑・説明板])
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説明板(関城の由来)の口コミ情報
2025年08月20日 猫耳感謝感激雨霰萌え
関市の中心部にある安桜山は、標高152米の稜線のなだらかな山である。山頂には、長井藤左衛門長弘が享禄元年(1528年)に安桜山城(関城)を築いたと伝えられている。その後、城主は長井隼人佐道利に移り、戦国時代に織田信長によって攻められた事は、あまり知られていない。
長井隼人は中濃地区から東濃可児郡あたりまで勢力を持ち、斉藤道三とは義弟にあたるので斉藤家が最も信頼する武将で、信長との数度の合戦には総大将格で出陣していた。
永禄年間の中濃地方は、堂洞城(現・美濃加茂市蜂屋)加治田城(現・富加町加治田)安桜山城とが互いに同盟を結び、信長の侵略に備えていた。
永禄八年(1565年)信長は中濃に大軍を率いて、侵攻してきたが加治田城主が同盟を破り信長に通じたため堂洞城は孤立し、遂に落城した。
長井隼人は智勇にすぐれた武将で、神出鬼没の迎撃戦の末、撃退したりした。ついで中濃の要であった安桜山城も三方から攻め寄せられ、これに抗いきれず退去し、以来廃城となった。
永禄十年(1567年)稲葉山城(岐阜城)が落城すると美濃一円は信長の支配下になった。乱世にあって終始一貫節度を貫いた長井隼人は戦国の武将として高く評価されている。
後援 関市教育委員会
監修 東海古城研究会
説明板より。かなり経年劣化し、読み難くなっている。
写真③は、説明板周辺から見た安桜山(関城)。
久方ぶりに、関市の模型店まで買物…。