竹鼻別院(竹中伝六喜伯の墓)

竹鼻別院(竹中伝六喜伯の墓)([竹ヶ鼻城  寺社・史跡])

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竹鼻別院(竹中伝六喜伯の墓)の口コミ情報

2022年06月19日 前田利家猫耳メイド萌


竹鼻別院の由緒
嘉禎元年(1235)親鸞聖人が関東からの帰途、三河の柳堂で教化された時、葉栗郡門真の庄、河野四郎通勝等九人の者が教えを受け、木瀬に草庵を結び聖人を迎えた。後世これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒のはじまりであり、この草庵が竹鼻別院の前身である。
文明二年(1470)蓮如上人ご巡化の折、洪水で流れた草庵を再興し「河野御坊」と名付けられた。その後、河野御坊は専福寺と改称されたが人災・天災などで何度も移転した。
戦国時代、本願寺と織田信長との一向一揆(石山合戦)に、当時の住職 忍語が出陣し戦死した。
慶長九年(1604)教如上人はこの功に報い、寺を「御坊」とし新加納村から竹ヶ鼻村に移し、五十四ヶ寺を配下にした。
竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、再度の類焼に遇い、現在の地に移転したのは、宝暦十年(1760)である。明和八年(1771)から、五十年の歳月を要し完成した本堂は、明治二十四年(1891)の濃尾大震災で倒壊した。しかし、「法燈を護らねば」と、篤信の門信徒達によって直ちに、南北八間・東西十八間の仮本堂が建立された。
現在の本堂は、大正四年(1915)から、大正十年にかけて再建された。なお、「竹鼻別院」と改定されたのは、明治十九年(1886)である。

説明板より。

境内には、岐阜県指定・羽島市指定史跡 薩摩工事義歿者 竹中伝六喜伯の墓や、羽島市 天然記念物 竹鼻別院のフジなどがあります。

竹ヶ鼻城の正確な場所は、特定されていない為、幾つかの推定地があり、竹鼻別院の西側にあったとされている説もある。

山門北側から、境内駐車場に入る事が出来ます。

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