間島太閤山
間島太閤山([竹ヶ鼻城 寺社・史跡])
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間島太閤山の口コミ情報
2021年09月28日 オーイ!テツロ
竹ヶ鼻城を水攻めする際に付城となった高さ6m、40m四方の小丘跡は元々、河川氾濫地域の「助命壇」だったのでしょうか?現在はその高さ相応(電柱で目測)にある祠から秀吉の視高を感じることができます(写真)。
将兵のみならず地域一帯から人を集めた突貫工事で一夜堤を造り、水攻めが始まりました。おお、みろ人がごみのようだ(妄想)、、
竹ヶ鼻城は二の丸まで冠水、町家は約1mも浸水、筏を組んだり簀を張ったりして対処するも逃げ場を失った鼠や蛇が押し寄せ、婦人子どもはこれに苦しんで死ぬものも出たといわれます、、、
水攻めに加担したかたちとなった民衆には痛たましき眺め、、やるせなかったことでしょう、、、
【誤削により再口コミ<(_ _)>】
2021年08月10日 前田利家猫耳メイド萌
八幡神社の東側の樹木が切り払われて、小丘全体が見やすくなってました。
2021年04月03日 【城郭道】たっきー
竹ヶ鼻城北西にある間島太閤山。1584年、豊臣秀吉が竹ヶ鼻城へ水攻めをする際に本陣を構えた場所です。少し離れたところにはその時に築いた一夜堤があります。
現在は石碑が建ち、高台となっています。又、その高台には神社があります。
2020年08月18日 とんかつおやじND
織田信長の死後、実権を掌握した羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康とが対立し、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが起こった。4月9日、長久手で家康に敗北を喫した秀吉は、作戦を変更して伊勢長島城の信雄を脅かし、家康を誘い出そうと図った。秀吉は細川忠興らを動員すると、まず5月6日ないし7日に信雄方の加賀野井城を落城させ、翌日には竹ヶ鼻城の北西1キロメートルにある間島村の丘陵に付け城を築いて、そこを本陣とした。
ウィキペディアより
現在は本陣跡のみ高台として残ってます