三七松
三七松([八神城 寺社・史跡])
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三七松の口コミ情報
2022年06月06日 前田利家猫耳メイド萌
豊臣秀吉と徳川家康が戦った、小牧・長久手の戦い(1584)で秀吉は、不破友綱の竹鼻・加賀の井城を攻めた。友綱は妻を離縁し実家の八神城へ帰したが、妻は石田の地に着いて自害した。家老の三七は墓標に稚松を植え殉死をとげた。(他に様々な言い伝えあり)
松は大木に成長したが、大正四年に枯死した。松を切ると生血が出ると恐れられたが、今は三七を讃える漢詩が残るのみ。
伝説によると、天正十二年五月竹鼻城が豊臣秀吉に水攻めにされた時、城主の不破源六は妻の実父である、八神城主 毛利掃部介に援軍を求めたが断られたので、武士の意地から妻を離縁した。
妻は家来の三七に送られ、実家に帰る途中、石田と八神の境で「他家へいったん嫁したからには、どうして帰れよう」と自害した。三七は遺体をその地に埋葬し、一本の松を植え墓標とした。これが「三七松」であった。
三七松は、大人六人が手をつないでやっと抱えられる程の大木まで成長していたが、大正六年完全に枯死した。その後、若木が植えられたが、近年に至って枯死してしまった。
説明板より一部抜粋。
此処より東側に位置する、石田稲荷神社(木曽川堤防上)の拝殿には、「三七松の松皮」が残されているという。