高須城跡説明板

高須城跡説明板([高須城  碑・説明板])

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高須城跡説明板の口コミ情報

2026年05月19日 猫耳尾張守メイド萌


関ヶ原の戦いにおける高須城
この地は、附近の土豪だった高木盛兼が、文禄元年(1592)より一万石で領有していた。盛兼は豊臣秀吉に仕え、一説には小田原攻めの功績により高須城主に取りたてられたという。関ヶ原の戦いで西軍についた盛兼は城に籠もり戦いに備えていたが、慶長五年(1600)八月十九日、東軍の福島正則の命を受けた、松ノ木城主(海津市松木)の徳永寿昌、今尾城主(平田町今尾)の市橋長勝ら東軍勢の攻撃を受けた。『高須城主記』によると、降伏を勧める使者を受け入れた盛兼は、舟で城から逃れ去ったという。
寿昌、長勝らは、決戦前の八月十六日に丸毛兼利の福束城(安八郡輪之内町)も攻略しており、東軍の勝利に貢献した。

戦後処理と城下町の整備
戦い後、寿昌が入城、駒野城(南濃町駒野・後に廃城)も支配して五万石余を領する大名となった。戦いの翌年には、城の堀、石垣、門等の修築に着手。三年がかりで家中屋敷や町家を立て並べて城下町を整備し、現在の町並みの基礎を築いた。
寿昌はその後、将軍上洛のための休泊施設「御茶屋屋敷」(大垣市赤坂町)を慶長九年(1604)に造営、慶長十四年(1609)には金生山 明星輪寺(大垣市赤坂町)の再建に尽力した。広徳寺(海津市高須)には、宝暦十年(1760)、寿昌の百五十回忌に建てられた墓碑が残る。後を継いだ長子の昌重は、大坂城普請の遅延で将軍の怒りを買い除封された。
説明板より。

高須城主郭部は岐阜県立海津明誠高等学校北側、岐阜県道8号線 津島南濃線(水郷ハナミズキ街道)が貫通している場所にあったと思われる。

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