鷲塚城
鷲塚城([羽城 周辺城郭])
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鷲塚城の口コミ情報
2025年10月08日 尾張守たまきち
鷲塚村は1561(永禄4)年まで吉良氏の支配を受けていたが、吉良義昭が藤波畷の戦いにおいて岡崎の徳川家康に敗れると、家康の支配地に変わった。
1562(永禄5)年、家康は鷲塚城の築造を命じ、鷲塚村の片山家に身を寄せていた刈谷城主:水野忠政の九男水野忠重を城主に任じた。水野忠重は徳川家康の生母:於大の方の弟に当たる。忠重は1561(永禄4)年より家康に仕え、1563(永禄6)年から翌年にかけて勃発した三河一向一揆において戦功を挙げた。
忠政が亡くなると、家督を継いだ水野信元(於大・忠重の兄)は織田方へ与し、忠重と対立したが、1575年信元は武田勝頼との内通を信長に疑われ、家康の家臣:石川数正・平岩親吉に大樹寺で嫡子信政と共に殺害された。
忠重は1580(天正8)年まで鷲塚城主を務めた後、織田信長に追放された佐久間信盛に代わり刈谷城主となった。鷲塚城は1590(天正18)年まで代官が置かれていたが、以後は廃城となった。
鷲塚城は、東西470m,南北360mの規模で、東浦と呼ばれた入江に突き出た半島部分に築かれ、浸食谷を中央に挟んで南に突き出た二つの半島状台地にあった。西の丘は「水野氏の馬場」と呼ばれ、東の丘の曲輪に居館があった。
往時は舌状台地であったが、現在は整地され宅地に変わり、遺構は無く、削り取られた大量の土砂は伊勢湾台風の復興工事の際に利用された。現地は、尾城公園となっており、公園内に城跡碑と解説板がありました。