磨墨塚
磨墨塚([羽黒城 寺社・史跡])
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磨墨塚の口コミ情報
2025年02月12日 猫耳◇□◁△▷▽⊿萌
「磨墨」と「池月」という2頭の名馬を持っていた源頼朝は、梶原景季(梶原景時の嫡男)に「磨墨」、佐々木高綱に「池月」を与えた。
「磨墨」を有名にしたのは、1184年(寿永三年:平安時代)の宇治川の合戦(木曽義仲との戦い)での景季と高綱の先陣争いである。
頼朝の死後、鎌倉幕府の内紛で敗れた梶原景時は鎌倉から追放され、京に逃れる途中、駿河国狐崎(現静岡県清水)で息子景季、景高ら肉親、郎党とともにことごとく非業の死を遂げた。この時、鎌倉にいた景高の一子豊丸はまだ幼少で、乳母隅の方の手にあった。その家族は羽黒にゆかりのある隅の方と七家臣に守られ、「磨墨」を伴って、この地に落ちのびてきたといわれている。
豊丸は、この地で成人して梶原景親を名乗り、現興禅寺の付近に館を構え、羽黒城を築城したといわれる。羽黒城は、以後約380年間にわたって梶原氏の居城として栄えた。「磨墨」は隅の方が亡くなるのと時を同じくして死に、この地に葬られたと伝えられている。
こうした伝承を後世に伝えるべく、磨墨塚周辺一帯に「磨墨塚史跡公園」として整備した。
磨墨にまつわる伝説
磨墨塚より、北へ約500㍍。名鉄小牧線を挟んだ所に恩田島という地名がある。ここには恩田森と呼ばれる鎮守の森があり、稲作の神や疫病・厄災除けの神様を祀った恩田社がある。
この地名については、磨墨がこの辺りで死に、馬頭が背負って磨墨塚の所までおぶって運んだという言い伝えから、「おった」がなまって「おんだ(恩田)」となったという伝説が残っている。
また、江戸時代に書かれた『正事記』や『尾張徇行記』には、磨墨を葬った際の目印として塚に植えられた一株の姥桜があったという記述があるが、現在では枯れて残っていない。
犬山市教育委員会(説明板より)
名馬磨墨塚と隅の方の墓標の周辺以外は、完全に公園化され、トロイの木馬状の遊具が設置されています。