鵜沼城

鵜沼城([犬山城  周辺城郭])

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鵜沼城の口コミ情報

2025年09月09日 猫耳感謝感激雨霰萌え


標高約95㍍の城山山頂に築城された戦国時代の山城。正確な築城年代は不明。永享年間(1429〜1440年)頃に大沢利治が築城したとされる。
大沢利治は和泉国から美濃国に移り、土岐氏・斎藤氏に仕え、この地域を支配したとされる。
戦国時代、城主の大沢治郎左衛門は「東美濃の虎」と称される猛将で、弘治二年(1556年)の長良川合戦では、斎藤義龍の主力で参戦した。
永禄七年(1564年)織田信長は、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に伊木山城と鵜沼城の攻略を命じた、鵜沼城主大沢治郎左衛門は強く抵抗したが、藤吉郎の調略に応じて治郎左衛門は降伏し、鵜沼城主大沢治郎左衛門・主水父子は信長配下となったが、治郎左衛門に疑念を持った信長は暗殺を企て、それを察知した藤吉郎は治郎左衛門の逃亡の手引きを行ったと言われている。
その後、鵜沼城は犬山城主の池田恒興に与えられ、恒興が国替えになった後は、中川定成が犬山城に入り、同時に鵜沼城も支配した。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、豊臣方の池田恒興は東美濃に向かうと見せかけて、旧領の鵜沼城へ入城し、中川定成の留守を見計らって犬山城を攻略した。
その後、鵜沼城は廃城となった。

犬山橋の架橋への尽力に鵜沼の人々は大いに感謝し、共有林であった城山を三輪の別荘用地として貸出、昭和五年までに別荘が完成したが、三輪は別荘の完成と同年に亡くなった。
別荘は初めは、犬山の彩雲閣の別館として料理旅館として使用されました。
太平洋戦争終結後は、城山山頂の建物は米軍に接収され、軍隊専用のクラブとして使用されました。
米軍から返還された後は、別館二棟が増築され、昭和五十年代まで再び旅館(城山荘)されましたが、別館二棟が失火により焼失し、営業を停止して廃墟となっていたが、平成十四年に解体されている。
2023年頃までに城山の公園化を目指していたが……。色々あって難航している。

城山には丁字状に、トンネルが掘削されエレベーターで山頂に登れて、木曽川側にテラスが設置されていたという。

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