亘利城屋敷
亘利城屋敷([大野城 周辺城郭])
大野城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「亘利城屋敷」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
亘利城屋敷の口コミ情報
2023年10月28日 前田利家猫耳メイド萌
「亘利城屋敷の跡」
このあたりから南方にかけて、城屋敷の地名が現存する所である。
今から、およそ四百五十年程前の「松原島」の豪士、松原源吾芸久及び、弟 松原内匠芸定の亘利城屋敷の跡である。源吾は、天文の頃(1533)その所領が尾張の国・葉栗郡松原島村(現川島町渡町)を中心に、笠田・野中の各村に及ぶ有力な支配権を持つ豪士であり、弟内匠と共に土岐頼芸の家臣であった。その後、斎藤道三の配下となり、天文十三年(1544)八月十四日、源吾は織田信秀(信長の父)の美濃への侵攻の時、無動寺村 光得寺(現笠松町)の砦で、土岐頼芸の末弟である、土岐八郎頼香を道三の密命を受け殺害し、寵愛を受けて広い範囲に領地を賜ったのである。また、弘治元年(1555)の長良川の戦には、源吾は斎藤義龍(稲葉山城主)の軍に属し、松原次郎左衛門(笠田町)は道三(鷺山)方に属し同族相別れて戦に臨んだ。その後は義龍に身を寄せ、一族の家門と繁栄を守ったのである。一方、弟内匠は、永禄九年(1566)信長稲葉山城攻めの折、墨俣一夜城築城大工の総棟梁として、松倉湊で造材し筏で運び美濃攻めに活躍し、翌十年(1567)稲葉山城はついに落城し、信長は稲葉山城主となった。
戦国の世、松原一族は家門の存続と領地の保全や一族子孫の面倒を見るため、水害の多くなった松原島をはなれ、支配領地の野中・平島・若宮地・薬師寺(現岐南町)米野・中野(現笠松町)の各村に移住し、広い範囲に勢力を張り所領を守った。時に安土桃山時代(1570〜1595)であった。天正十四年(1586)この地に移住した野田・川瀬一族の住地となり、享保年間に始まった川まつりは、この南北の道を境に西側を西組・東側を東組として行われ、現在に至ったのである。
川島町文化財保護審議会
説明板より。
説明板の裏側は、鬱蒼とした竹藪となっている。