亘利城屋敷
亘利城屋敷([大野城 周辺城郭])
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亘利城屋敷の口コミ情報
2026年04月25日 尾張守たまきち
築城年は不明。
土岐頼芸の家臣:松原源吾芸久と弟の松原内匠芸定の城館跡。
この地の諸村を支配する豪士であり、斉藤道三の配下となった。
1544年、織田信秀の美濃攻めの際、道三の密命により、無動寺村光得寺の砦で土岐頼芸の末弟土岐八郎頼香を殺害し、領地を賜ったとされる。
1555年、長良川の戦いで松原源吾は斉藤義竜に与し、斉藤道三を追い詰め松原家の存続を護った。
弟の松原内匠芸定は、川並衆〔坪内利定・蜂須賀小六・前野長康・大沢基康・日比野六太夫・青山新七ら〕の一人であり、1566年 木下藤吉郎の墨俣城築城の際、大工の総棟梁として、木曽の木材を松倉湊で一旦陸揚げして加工。再度、墨俣へ流し、織田信長の美濃攻略に助勢した。
現在を訪問しましたが、竹藪になっていました。木曽川の中洲であり、度々洪水に見舞われた場所であることから、遺構はありません。
2023年10月28日 猫耳メイド萌え。
「亘利城屋敷の跡」
このあたりから南方にかけて、城屋敷の地名が現存する所である。
今から、およそ四百五十年程前の「松原島」の豪士、松原源吾芸久及び、弟 松原内匠芸定の亘利城屋敷の跡である。源吾は、天文の頃(1533)その所領が尾張の国・葉栗郡松原島村(現川島町渡町)を中心に、笠田・野中の各村に及ぶ有力な支配権を持つ豪士であり、弟内匠と共に土岐頼芸の家臣であった。その後、斎藤道三の配下となり、天文十三年(1544)八月十四日、源吾は織田信秀(信長の父)の美濃への侵攻の時、無動寺村 光得寺(現笠松町)の砦で、土岐頼芸の末弟である、土岐八郎頼香を道三の密命を受け殺害し、寵愛を受けて広い範囲に領地を賜ったのである。また、弘治元年(1555)の長良川の戦には、源吾は斎藤義龍(稲葉山城主)の軍に属し、松原次郎左衛門(笠田町)は道三(鷺山)方に属し同族相別れて戦に臨んだ。その後は義龍に身を寄せ、一族の家門と繁栄を守ったのである。一方、弟内匠は、永禄九年(1566)信長稲葉山城攻めの折、墨俣一夜城築城大工の総棟梁として、松倉湊で造材し筏で運び美濃攻めに活躍し、翌十年(1567)稲葉山城はついに落城し、信長は稲葉山城主となった。
戦国の世、松原一族は家門の存続と領地の保全や一族子孫の面倒を見るため、水害の多くなった松原島をはなれ、支配領地の野中・平島・若宮地・薬師寺(現岐南町)米野・中野(現笠松町)の各村に移住し、広い範囲に勢力を張り所領を守った。時に安土桃山時代(1570〜1595)であった。天正十四年(1586)この地に移住した野田・川瀬一族の住地となり、享保年間に始まった川まつりは、この南北の道を境に西側を西組・東側を東組として行われ、現在に至ったのである。
川島町文化財保護審議会
説明板より。
説明板の裏側は、鬱蒼とした竹藪となっている。









