赤染衛門歌碑公園(衣かけの松跡)

赤染衛門歌碑公園(衣かけの松跡)([北島城  碑・説明板])

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赤染衛門歌碑公園(衣かけの松跡)の口コミ情報

2026年04月26日 猫耳尾張守メイド萌


百人一首歌人 赤染衛門歌碑公園(衣かけの松跡)

歌碑建立のこと
稲沢市制三十周年を記念し、本市にゆかりの深い平安の女流歌人「赤染衛門」と、その夫で大江川の開削に力を注いだ「大江匡衡」の二人を顕彰し、後世に伝承する目的でこの碑を建立したものである。
1001年(長保三年)の七月、大江匡衡が尾張守に任命され赴任するのに伴って、赤染衛門も稲沢の地を訪れている。1004年まで住み、1009年(寛弘六年)再び尾張守に任じられた夫と共に、稲沢に下向したと伝えられる。
ここに刻んだ二首の歌意は、大江匡衡が尾張国(稲沢)へ二度目の赴任をした際、初雪が降り住み慣れた馴染みの土地である尾張に帰って来たことを思い出しながら詠んだもので、その「返し」に、赤染衛門が、今度の旅は再び見る昔馴染みの所ではあるが、初雪はやはり新鮮な気持ちで観賞されると詠んだ歌である。
●赤染衛門
赤染衛門の生没年は不詳であるが、960年〜1041年の説もある。赤染時用の娘で時用が右衛門尉であったので赤染衛門と呼ばれた。母は、初め平兼盛と結婚し、離別して赤染時用と再婚したので、実父は平兼盛という説もある。
赤染衛門は、大江匡衡と結婚し、挙周、江侍従の二子の母となっている。藤原公任の中納言の辞表を匡衡が作成するとき「不遇を訴える形で」と助言した話は有名で、良妻賢母ぶりがうかがえる。
歌人としては、和泉式部と並び称され、中古三十六歌仙の一人として有名である。歌集に「赤染衛門集」があり、異説もあるが「栄華物語」本編の作者として有力視されている。

やすらはで  寝なましものを  小夜ふけて
 かたぶくまでの  月を見しかな(百人一首)
平成元年二月  稲沢市
説明板より。

衣かけの松跡
栄華物語の作者 三十六歌仙の一人 赤染衛門は尾張守 大江匡衡の妻で、長保三年(1001)夫と共にここに住み。この松の枝に衣をかけたと伝える。
昭和四十六年三月  稲沢市教育委員会建之

大江匡衡 (952〜1012)
平安中期の貴族で、学問を得意とし、一条天皇の侍読を務めた。三度尾張国司を務め、妻の赤染衛門を伴い、尾張の国衙があったとされる稲沢市松下の地に赴任した。
尾張学校院を再興、尾張国分尼寺などの寺院や神社を修理、治水事業として木曽川の分流である三宅川の流れを変え、新たに大江川を開削したと伝えられる。

国にいきつきたりしにはつ雪のふりしに

はつ雪と おもほえぬかな このたびは
猶ふる里を 思ひでつつ   匡衡

めずらしき ことはふりずぞ 思ほゆる
行きかへりみる ところなれども   赤染
石碑碑文より。

天保十五年の松下村絵図には「中嶋郡国衙庄松原郷松下村絵図」と称し、中央部に「赤染衛門城跡なり、今は国衙屋敷之宮ト唱」と記される。
ウィキペディアより。

周辺には、国衙址、学校院址等あるので、官庁街的に役所や屋敷が集まっていたのだろうか。

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