上祖父江城

上祖父江城([片原一色城  周辺城郭])

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上祖父江城の口コミ情報

2024年04月23日 前田利家猫耳メイド萌


築城時期は、定かではない。
江戸時代の寛文年間(1670年代)に編集され、尾張藩一円の村勢を知る書物(現在で言う国勢調査)に、『寛文村々覚書』がある。この書物の上祖父江村の項には、次のように記載されている。
「古城跡壱ヵ所 先年井野蔵人正居城の由、今ハ百姓屋敷成。」即ちここには古城跡が一ヵ所あり、いく年か前、城主は井野蔵人正(いのくらんどのしょう)という人物であった。また、当時すでに百姓屋敷になっていた、という。
続く寛政年間(1790年代)には、尾張藩が藩領各村に作成を命じた村絵図、『中嶋郡村邑全図』の内「司農府図書記」の蔵書印がある一葉に「上祖父江」があり、八剱社を含む方形の土地が見える。
さらに『朝日村誌』地名の由来の項で、「大跡」「東大跡」は『張州府志』にある「祖父江城在上祖父江村井野蔵人居之今為民居」の跡かと指摘している。現在も、大跡の地名が隣地に存在している。
場所は、この八剱社辺りにあったと思われる。
     朝日連区地域づくり協議会

花子の父 太田八右衛門記銘の造営記念碑(八剱社)

女優花子は、慶応四年(1868)中島郡上祖父江村の太田八右衛門・うめの長女として生まれた。本名はひさという。生まれてすぐに名古屋に移り、そこで踊りや三味線・八雲琴などを習い、中村光吉が率いる女旅芸人一座の子役として地方を巡業していた。
明治三十五年(1902)花子は活動の場を広げたいと思い欧州へ向かった。デンマーク、ドイツへ、そして巡業先のイギリスで、女性興行主ロイ・フラーに出会った。フラーは端役だったひさを日本人一座の座長にさせ、さらにひさを「花子」と名乗らせた。
明治三十九年(1906)花子一座の「芸者の仇討」を観劇していたロダンは、花子の演技に感銘を受け作品のモデルになるよう依頼した。その後花子は、巡業の間に度々アトリエを訪れモデルをつとめた、彫刻された作品は五十八点に達した。ロダン夫妻とは寝食を共にするほど親交があったという。大正十年(1921)花子は帰国し、岐阜西園町の妹たかを経営の芸妓置屋「新駒屋」に身を寄せた。花子はこの時五十三歳であった。
故郷の上祖父江八剱社には、大正十四年(1925)に大規模な境内整備をしたことを記念する「御造営記念碑」が建てられており、この中に「篝籠 太田八衛門」の文字をみることができる。岐阜の太田家が花子の父の名前で寄進したものと思われる。今境内にある篝籠は昭和四十七年(1972)に新調されたものである。旧篝籠の石柱は、旗立て用の支柱に転用されていたが、やがて役目を終え、境内に置かれていた。その後由来が分かり、平成十三年(2001)神社から一宮市尾西歴史民俗資料館に寄託された。
八剱社の石碑及び旧篝籠石柱は、尾西地区に残された花子につながる遺物である。
      朝日連区地域づくり協議会

上祖父江城址の説明板が、新たに設置されていました。

2021年06月05日 前田利家猫耳メイド萌


築城時期は不明。井野蔵人の居城とされる。城跡の位置もよく分かっていないが、八剱社の辺りとされる。字名は大跡。

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