御殿山 小笠原家廟所
御殿山 小笠原家廟所([稲倉城 寺社・史跡])
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御殿山 小笠原家廟所の口コミ情報
2026年03月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、信濃の中世や戦国時代を調べていると避けて通れないのが小笠原氏の事跡だ。室町時代には信濃守護職をほぼ世襲していたんだから当たり前なんだけど、意外にも守護としての威令が信濃国全土に及んだのはごく僅かな期間でしかない。戦国時代には武田氏によって国を逐われ諸国を流浪した小笠原大膳大夫長時が知られていると思うんだけど、武田氏の滅亡後、信長の横死後に府中を回復して安曇郡や筑摩郡に再び勢力を扶植させた小笠原右近大夫貞慶(長時の子である。)とその子、秀政の事跡も同時代における奇跡の一つとして忘れてはならない。近世大名への発展すら遂げた両名の手腕には公正な評価が更に必要だろう。
御殿山 小笠原家廟所は稲倉城の南南西約3.2km、女鳥羽川東岸(左岸)、標高約887mの御殿山の南西側斜面上平場に立地する廟所です。簡単に言えば有名な浅間温泉の外れにある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、廟所周辺の道路は狭隘であり、進入は付近住民とのトラブルを招く恐れがあるので車での接近は諦めよう。同じく位置登録がある「御射神社春宮」前の路肩に車を捨てて残りの道程は徒歩で進んだ方がよい。ちなみに廟所は御殿山が段丘台地上から立ち上がる所に立地しており実質的には登る必要が無い。
廟所の説明が面倒なんで現地説明板に書かれている内容をフルコピろう。
「松本城の基礎を築いた初代小笠原家の城主小笠原貞慶と秀政、忠脩父子を祀った廟所であり、特に忠脩の遺骨が埋葬されている。五輪塔は向かって右から秀政、貞慶、忠脩で、秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿とそれぞれ埋葬された寺名に関係深い戒名がつけられている なお、現在の五輪塔は貞享二年(一六五八)松本城主水野忠直によって、建立された。また、当時の御霊屋は天保十二年に焼失したままで、石垣を残すのみである。」
…説明板には「秀政は臨済寺殿、貞慶は大隆寺殿、忠脩は法性寺殿とそれぞれ埋葬された寺名に関係深い戒名がつけられている」てあるんだけど、関係深いどころかもろにそのまんまなのには草…
廟所ではあるが五輪塔の地下に埋葬されているのは、慶長二十年(西暦1615年)五月七日、「大坂夏の陣」において討死した忠脩のみである。同名は松本城の留守を預かっていたが血の気が多かったのか我慢出来ずに無断で参陣、実父の秀政に従って「天王寺、岡山の戦い」に臨んだが父子共々討死、二十二歳の若さであった。ちなみに生母は松平信康の長女、登久姫であり、悲劇のプリンスの血を引いている。
忠脩の実父、秀政は、「天王寺、岡山の戦い」において瀕死の傷を負い間も無くして絶命、その際に家康に対して語った最期の言葉は、「信濃は…」だったそうだけど続きは不明、「信濃は…良い所です…」だったとしたら草…
秀政の実父、貞慶は…好きじゃないんでパスしとく。ちなみに執念深いなかなかのアサシンだ。
廟所の方は、天保十二年(西暦1841年)に焼失してしまったそうだから現況は墓所に等しい状態、誰も気付かないような場所に3基の五輪塔がひっそりと佇んでいる。残された石垣は大変立派なものだが全体的には寂れた感じだ。
おいらは小笠原氏の事があんまし好きじゃないんだけど、近世大名として明治維新まで存続しえたのは、上記三名の手腕と忠節によるものが大きいて考えている。江戸時代には何度か改易の危機に瀕してもいるんだけど、その度に話題にされてきたのは、前述した「祖父の勲功」であった。
信濃守護職の家格を貞慶等は常に意識していた節があり、信長の横死後における上杉氏の川中島進出に対しては「押領」とまで断じている。室町時代を通じても小笠原氏が同地を直接差配する事は一度たりとて無かった(半国守護の一時期には越後守護が兼任する所であった。)筈だが、当時の貞慶の認識が時代にそぐわないものであった事は言うまでもない。
天正十三年(西暦1585年)十一月十三日、石川数正の突然の出奔を決起として豊臣氏に臣従する。この際に数正の妻子と共に証人として連れ出されたのが嫡男の貞政(秀政)であるが、数正の出奔は貞慶と相談の上の話であろう。当時の情勢から徳川氏に従う事への限界を見出したのかもしれない。後世、この離反を数正に証人を奪われたが故として責任転嫁を図ってもいるが、後の行動を鑑みればどう考えても無理があり過ぎる。
※大隆寺・法性寺跡にほぼ隣接している。前者は貞慶、後者は忠脩が創建した。廟所は元は寺地の内にあったのかもしれない。
※信濃守護〜室町幕府の役職であり、朝廷の官位である従五位下、信濃守とは性格を事にしている。室町時代以前における信濃国と小笠原氏との繋がりは知行地を除けば断続的でしかない。









