今井北城(北城山・上今井城)

今井北城(北城山・上今井城)([内堀館  周辺城郭])

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今井北城(北城山・上今井城)の口コミ情報

2026年01月07日 内記かずりヾ(・ε・。)


今井北城(北城山・上今井城)は内堀館の北北西約1.2km、千曲川西岸(左岸)、本沢川北岸(左岸)、標高約499mの通称、北城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の国道117号からの比高は140m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは上信越自動車道に沿う東麓の舗装農道からとなり、ピンポイントで3箇所から登る事が出来る。藪に塗れた、ガードパイプの付いた舗装道から登るのが一番楽だが、30m位で道は消失、残りの道程は完全な直登を強いられる。

該地は千曲川の左岸地域、謂わゆる「河西通路」の要衝である。善光寺平から飯山へと至る南北の道筋を扼しているだけでは理解が及ばない。城地南側の鞍部を東西に通る今井道は、水内郡太田庄内赤塩へと通じ、更に西行すれば同庄内倉井へと至る。倉井からは斑尾川に沿って北行すれば芋川庄内芋川へ抜け、芋川からは谷筋を西行して柴津へと至り、柴津から野尻湖の湖南地域を進めば「芋川庄内沼尻關所」、謂わゆる野尻の関所を通って赤川から関川を渡り越後国との境目を跨ぐ。今井北城の占地は、同じ内堀館のリア攻めマップにある今井南城と共にこの道筋を扼す事が目的であり、単なる飯山への関門と捉えるだけでは多分に不足が生じる。

築城年代は不明、築城者も不明としよう。後世の推測も甲越が争った時期にフォーカスされてしまい、その発生にまで遡る事を拒んでいる。個人的な推測に過ぎないが、この要害が特に重要視された時期は、室町時代の中後期、特に永正年間(西暦1504年〜1521年)だと思うのだが…

「長野県町村誌」、「上今井村」の管轄沿革を見ると、「古事不詳。永正中村上顕國諸城を陥れ、本村、村上氏の領知となる(村上氏幕下某領せしとも云)…後略、」とある。上今井村は、今井として、中世には水内郡太田庄を構成していた一村であったと考察されているが、時代的な変遷もあり、その支配層を明らかにする事は極めて困難な作業だ。明応四年(西暦1495年)には、善光寺を巡って高梨政盛が村上政清と争い、同寺を焼失させ善光寺如来の真仏を持ち帰る事件が発生しているが、後に村上顕國が永正年間に水内郡内の諸城を陥れたと云われるのも、今井が高梨氏の知行する所であったが故ではないだろうか。

信濃のお城の神が描いた縄張図を見ると、南北に概ねで7郭で構成され、他に斜面上に幾つかの小郭が設けられている。山頂部へと通じる山尾根等の要所を堀切で断ち切り、特に主郭からの西尾根には四連続堀切が穿たれている。主郭西側谷側背後の大堀切は見所の一つだが、主郭からの南尾根に設けられた2条の堀切には誰でも感動する事間違い無し。主郭側に近いものは縄張図における通称4郭に付随する横堀でもある。又、通称6郭の南側谷側前面の堀切は東側で長大な竪堀が+され、谷側に竪土塁、山側には土塁が付く。後者は上段の帯郭の備えを手伝っていたりもするお洒落な造作だ。個人的には4回目の訪問となるお気に入りだが、結構な藪城でもあるので冬場の時期に訪ねるのがよいだろう。

但し、敢えて言わせてもらうが、信濃のお城の神が描いた縄張図には明らかな不足が見受けられる。調査時には藪が酷かったと思われるが、通称7郭の西側谷側側面と北側谷側前面に付く2条の堀切と、その先に見られる段付きの郭が完全に無視されている。城域の北端部を形成している部分でもある訳だが、神程の超達人がこれを見落とすとは…ちなみに不足はこれだけに留まらない。調子が悪かったんだろう。

山城て言えば、多くの人は戦国時代を想像すると思うんだけど、全体から見れば純粋に同時代に築かれたものは僅かなものでしかないような気がする。信濃に限った事なのかもしれないんだけど、史料、伝承等から導き出される築城時期は、室町時代の中後期が圧倒的に多いように思う。そう、「応仁の乱」とその前後に当たる時期だ。

寛正四年(西暦1463年)十二月十二日、越後守護、上杉氏の一門、上杉右馬頭は、高井郡高橋に攻め入り所々に放火するも、高梨政高がこれを打ち破り、右馬頭を討ち取る事件が発生している。これを受けた関東管領、上杉房顕は、幕府に訴え出て高梨氏を追討しようと働きかけ、寛正六年(西暦1465年)六月九日には、高梨政高と村上兵部少輔を退治するよう命じる治罰の御教書が発給されている。この御教書は早速効果を現し、小田切氏や香坂氏等の中小国人領主等は、高梨氏領の水内郡和田郷へ攻め入る等してその影響力を善光寺平から実力で排除しようと行動した。謂わゆる「信濃文正の変」て呼ばれる事象だが、高井、水内両郡の小規模な要害等が最も有効活用されたのはこうした時期であったように思う。

※3年前の写真も供養しておこう。

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