保科前の山砦
保科前の山砦([霞城 周辺城郭])
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保科前の山砦の口コミ情報
2025年03月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
保科前の山砦は霞城の西方約3.3km、保科川北岸(右岸)、標高997mの太郎山の北西尾根から南西へ向かって派生する同山支尾根末端部上、標高約525m地点の平場に立地する砦です。南麓の長野県道34号、長野菅平線からの比高は105m位でしょか。砦は同じ霞城のリア攻めマップにある霜台城の前哨であり、実際上は同城の一部と言ってよい。
行き方は長野市のホームページから「太郎山トレッキングコース」をダウンロードして下さい。該地は、この内の「太郎山南展望・史跡コース」の登山道上に位置しており、車の捨て場所は登山道入口の南側、「長野市若穂隣保館」の駐車場がアナウンスされている。ちなみに保科前の山砦を過ぎてそのまま登山道をひたすらに登れば前述の霜台城に辿り着く。
砦までの登城に苦労は無い。拍子抜けするぐらいのレベルだ。該地には砦跡を示す案内板も樹木に打ち付けてあるので通り過ぎる心配も無いとは思うよ…
築城年代は不明、築城者は保科氏です。前述の霜台城は、延徳年間(西暦1489~1492)に保科弾正忠正利によって築かれたと伝わり、砦の普請も同時期である事に間違いは無いだろう。同城の存在がなければ砦は物見台としての役割しかない。同氏については同じ霞城のリア攻めマップにある保科氏館が別に存在するのでその口コミの機会にでも…
保科氏は信濃の国人中、最も成功した氏族、武田氏被官時代に活躍した正俊はアプリの異名にもある「槍弾正」として特に高名、後に徳川氏に出仕した同氏は正光の代に至ると、徳川秀忠の庶子、幸松丸を養嗣子に迎えている。長じて正之を名乗った同名は、加藤家の改易後に会津藩藩主となり、同藩は幕末まで親藩として存続した。そんな保科氏発祥の地は該地の長野市若穂保科、即ち、平安時代末期に成立した長田御厨(保科御厨)である。
保科氏の要害、霜台城の大手筋を扼す出砦だが、城主の一人には、小井底五郎左衛門尉が挙げられる。同名は伊那郡小井弖庄から移り住み、村上氏に出仕、在名を取って小出氏を称したとされるが伝承の域を脱しない。城主となったのは村上氏の圧迫を受けた保科氏宗家の退去後の話であろうが、宗家に従わずに敢えて在地に留まったとも言えそうだ。ちなみにその子、小出大隈守は、文禄年間(西暦1592年〜1596年)の初めに高井郡仙仁に移り住んだとも伝わる。
砦の縄張は完全単郭、主郭の土塁は削れているも、主郭北側山側背後に土橋付きの堀切が1条、別に堀切に並走する形で薄い竪堀が1条確認出来る。単純極まりないが守る気も無いのであろう、この砦に人数を割くぐらいなら上段の要害に纏めて入れた方が遥かに賢明だ。番所的な役割しか持たないのは現況から見ても明白だと言える。
砦を過ぎて霜台城を目指して登っていると、標高約581m地点の岩場の崖地に「弾正岩」と呼ばれる物見の場が現れる。眼下に見下ろすのは菅平西組を経て上州の大笹へ抜ける保科道、かつては関東と善光寺平を結ぶ主要道であった。同道の道筋は新古三筋が存在し、現在の長野県道34号、長野菅平線はその内の一筋を踏襲している。
文治三年(西暦1187年)二月、鎌倉の三浦介義澄邸において、源頼朝を迎えての酒宴が催された。この時、保科宿の遊女、長は、訴訟の事で三浦介邸に逗留していたが、これを聞いた頼朝は長を酒宴に招き、郢曲(今様歌)を舞わせた…と「吾妻鏡」にはある。平安時代の末期には既に保科宿が存在し、遊女が置かれる程に栄えていた宿駅であった事が記述から読み取れる。現在、保科宿の正確な位置は不明だが、若穂保科の赤野田谷口には、「駒場」、「町ノ入」の小字が今も残っている。
※長野県道34号、長野菅平線〜手軽な険道として知られている。現在も若穂保科から菅平に至る山中の間には舗装道路以外に何も無い。
※弾正岩〜同じ霞城のリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。位置にあっては微妙にずれがあるかもしれない。
※写真①は保科氏館の推定地付近から撮影した遠景っす。山尾根の末端部が該地となる。