清野氏居館
清野氏居館([松代城 周辺城郭])
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清野氏居館の口コミ情報
2025年08月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、つい最近、京都の古書店から武田晴信発給の書状一通が新たに発見され、長野県立歴史館が286万円!でそれを購入したて話があったんだけど、書状自体の内容は、弘治二年(西暦1557年)七月、武田晴信が本陣の費用負担の担保として、国人領主の一人から所領の目録を受け取った事に謝するものである。書状の中で晴信は、所領の収益にかかる貢税を割り引く等、結構な気の遣いようなんだけど、この書状の宛名人の名は清野信秀、即ち、今回紹介する居館の主の一人だったかもしれない人物だ。
清野屋敷(禽屋敷・敖屋敷)は松代城の南西約1.8km、千曲川南岸(右岸)、標高694.5mの手城山から北東へ伸びる支尾根末端部上、標高約357m地点の平場に立地した屋敷です。地形模型図を見ると一応は尾根上だが、山尾根が丘陵台地に消える所でもありその比高は殆ど無いに等しい。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。東側の舗装道路上には「清野氏の碑」として味のある案内板が立っている。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは清野氏です。同氏はあまり知られていないが、川中島地域を代表する国人領主、清和源氏頼清流村上氏の一族である。村上九家の筆頭とも云われており、全盛期の知行地は、雨宮、生萱、岩野、倉科、西条、清野、土口、森、屋代の各郷村に及んでおり大身である。
清野氏は、永享十二年(西暦1440年)三月から続いた「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「二十六番 雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、他の川中島地域一帯の村上氏の一族と共にその名を連ねている。
他の村上氏の一族と比べるとかなり早い時期から武田氏に同心しており、「高白斎記」によればその出仕は「砥石城の戦い」が行われた天文十九年(西暦1550年)九月一日である。天文二十二年(西暦1553年)、清野左近太夫は偏諱を受けて「信」の一字を与えられたそうだが、この左近太夫とは清野清秀、冒頭で紹介した書状の宛名人、信秀(美作入道清寿軒とも。)の事であろうか。
永禄二年(西暦1559年)霜月(十一月)十三日、信濃の国人領主等は、長尾景虎が関東管領に補任された事を祝して太刀を贈っているが、その内の一人に「御太刀持参之衆」として「清野殿」の名が見られる。現代人の感覚からすると少し疑ってしまうような事実だが、武田氏に随身しながらも関東管領に補任された長尾景虎に祝いとして太刀を贈る不可解な行為は如何にして解釈したらよいのだろう。ちなみにこの「御太刀持参之衆」の中には「眞田殿」に代表されるように武田氏被官衆の名が数多く見られる。
居館の現況は…古峰神社の境内となっている。清野氏が海津へ居館地を移した後には蔵が建てられており、該地は「とりのくら屋敷」と呼ばれていたんだそう。但し、境内そのものを敷地範囲とするならば、武士の居する場所としては狭小に過ぎる。現代でも此処に家屋を建てるのは難しいだろう。個人的にはあくまでもその部分であったと思うのだが…
該地の大村集落は江戸時代に度々火災に遭っており、宝永年間(西暦1704年〜1711年)と天保年間(西暦1831年〜1845年)の出火元は何れも「とりのくら屋敷」だった。このため村民は、清野氏の遺徳が忘れられつつある事に火災の原因があると考え、弘化三年(西暦1846年」、同氏を追慕、顕彰するために「清野氏遺愛之碑」を居館跡に建立している。
清野氏ておいらが贔屓にしている氏族の一つなんだけど、その理由は単純、北信におけるA5ランクの牛肉城、同じ松代城のリア攻めマップにある鞍骨城の築城者だからだ。従って同氏の歴史を探る事は密かな楽しみでもあったんだけど、結果からすれば更なる研究が必要な氏族だと思う。清野氏は少なくとも二度に亘って一族が二分しているように見受けられるのだ。現在、提唱されている同氏の歴史は、様々な流れを無理矢理に一つの流れとして扱ってしまっているように思われる。
※大身である〜慶長七年(西暦1602年)の「川中島四郡検地打立之帳」によれば、前記九ヶ村の石高の総計は八千六百五十六石余だった。但し、この時の「右近(森忠政)検地」はかなりの問題があり実高との相違が甚だしいと思われる。ちなみに慶長三年(西暦1598年)、上杉氏の会津加増移封に同道した際の清野氏の知行高は約一万一千石であった。
※海津へ居館地を移した〜武田氏の普請による海津城は清野氏の居館地を活用したものだと伝わるが、その位置は、浄土宗の寺院、晧月山大英寺(本多忠勝の娘、真田信之の正室、小松姫の菩提寺である。)の付近が推測されており、海津城とはやや離れている。