屋代古城(城ノ内)
屋代古城(城ノ内)([屋代城 周辺城郭])
屋代城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「屋代古城(城ノ内)」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
屋代古城(城ノ内)の口コミ情報
2022年12月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代古城(堀ノ内)は屋代城の北東約2.1km、標高約356mの河岸台地上平場に城域が存します。該地は長野自動車道と上信越自動車道が接続する更埴JCT南西側の工業団地に含まれます。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「中部電力パワーグリッド(株)雨宮変電所」を目標に設定して下さい。変電所とその周辺が概ねの該地です。
築城年代は不明、築城者は清和源氏頼清流村上氏の庶流、屋代氏です。同氏は村上為国の子、経業(明国)に始まり、経業の孫、家盛が屋代二郎を、仲基が屋代大夫を、仲継が屋代五郎を、経仲と景仲が屋代六郎を称している。屋代氏は承久の乱の宇治橋合戦の手負交名内に屋代兵衛尉の名が見え、乱において一族は鎌倉幕府方として参陣している事が判る。建治元年(西暦1275年)五月の六条八幡宮造営注文では他の村上氏一族と共に屋代蔵人の名が見え、蔵人は五貫文を負担している。市河家文書によれば九条城興寺領(倉科荘)の年貢を建武元年(西暦1334年)に屋代一分地頭の小四郎が掠め取ったと訴えられており城興寺側(真言宗)と如意寺側(天台宗)との相論となったが、この翌年に周辺で青沼合戦が発生して沙汰止みとなっている。
お城の現況は工業団地として改変されていて何がどうだか…「よくもまぁこんなだだっ広い場所にお城を築いたものだなぁ…」とは思うけど、調べてみたら現在の千曲川の川筋は往古より北方へ約0.9km移動しているそうなので、往時の流れは丁度この古城の北辺を洗っていたのかもしれない。周辺は今も変わらぬ交通の要衝、謂わゆる兵家必争の地、第四次川中島の戦いで上杉勢が渡河したとされる雨宮の渡しは屋代古城の東方約0.8kmに位置する。
村上氏宗家もそうだが、屋代氏は本流の流れが経業系から頼国系に変わる。経緯は不明だが、宗家の流れに伴い再編があったと考えるのは自然だろう。永享十二年(西暦1440年)三月、結城合戦における結城陣番帳の八番には「村上殿代屋代殿」と見え、宗家の代役を務めて参陣している事が判る。屋代氏は寛正年間(西暦1460年〜1466年)に一重山にアプリ登録城である屋代城を築くが、屋代城自体は屋代郷ではなく船山郷に立地する。