安藤氏館(御屋敷)
安藤氏館(御屋敷)([荒砥城 周辺城郭])
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安藤氏館(御屋敷)の口コミ情報
2025年08月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、真面目で几帳面な性格、融通の利かない堅物眼鏡のおいらは、その内容に誤りがあれば潔く口コミを削除する事にしているんだけど、一時期に一気に削除しまくってしまった事から、もはや過去に口コミした事のある物件なのか、全くの新規の物件の口コミなのかの判断が付かなくなってしまっている。今回、紹介する物件は新規だと思うんだけどそうじゃない気もするんだよなぁ…
安藤氏館(御屋敷)は荒砥城の南南東約1.8km、寺沢川南岸(右岸)女沢川南岸(右岸)、標高約428mの山間部丘陵台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地は東流する寺沢川、日影沢、女沢川が創造した小規模な複合扇状地でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「株式会社滝澤興業」を目標に設定して下さい。車をそこら辺に捨てたらリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは安藤氏です。同氏は以下の町村誌の記述を信ずれば清和源氏頼清流村上氏の分流であり、源頼清の子、家宗の流れとなる。
「長野県町村誌」には「安藤氏邸址」として、「本村(新山村)西の方一町にあり。平地にして今田畑となる。地名を御屋敷と云ふ。里俗の傅に源頼信五代の孫、安藤太郎長基居住せしと云ふ。其男高松院蔵人成基、其男兵庫介基重、其男業基あり。其後世、水戸藩士たり。」とある。成基は高松院蔵人であったのだから京でも活動していたのであろう。院政期における村上氏一門は各院の家人を多数輩出している。
武田氏時代には安藤加賀守なる人物が筑摩郡安坂内、麻績城のリア攻めマップにある安坂城の城主であったと伝わる。同名は武田氏の滅亡後に更級郡へ脱したとも云われているので、本貫地自体は該地の更級郡村上郷内荒山の内にあったのかもしれない。或いは安坂の知行地を失ったがために先祖の旧地に還住したのであろうか。
居館の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。信濃のお城の神は居館敷地範囲をかなり広めに捉えているが、該地は用水路が館域を貫通している等、改変が多く、現地で往時の姿を想像する事が大変難しい。正直に言えば纏まりに欠けている。
該地は同じ荒砥城のリア攻めマップにある入山城の北西麓に当たる。村上氏の分流の居館地は千曲川の左岸地域に集中しており、村上氏が後に拠った埴科郡坂城郷内には全く見当たらない。知行地自体がそうであった事を意味しているんだろう。ちなみに前述した入山城だけど、ここ最近、丁寧な整備が入ったようで、聞いた話によれば非常に見易くなっているらしい。単純だが信濃の山城らしいイカちい堀切でブチ切れまくった縄張は一見の価値がある。コスパとタイパも非常に優れているんで、「ウインナーを焼く時には必ず4つの切れ込みを入れるのよっ!」ていう拘りがある方は是非…
※真面目で几帳面な性格、融通の利かない堅物眼鏡のおいら〜旅の行程を分単位でエクセル表に打ち出し、寸分違わず実行する事で城友さん達からは恐れられている。常に5分前集合、遅れる者はその場で斬り捨てている。嫌いな言葉は「とりま現地入り…」だ。
※口コミを削除〜数年前には写真投稿数が優に8000枚を超えていた。確か一気に半分以下になったと思うんでこの時に殆ど削除してしまったんだろうなぁ…ちなみに恥を晒し続けるよりも遥かにマシだ。後悔の念は全く無い。
※其後世、水戸藩士たり〜軽く探してみたんだけど安藤姓は見当たらなかった。但し、水戸藩は武田氏の旧臣が多く付けられていたそうなので有り得ない話ではない。
※安坂城の城主であったと伝わる〜推測するに村上氏の代官等として安坂に入部していたのであろう。
※荒山〜後に「新山」の文字が当てられている。理由は山沢の水害により耕地が流亡する事が多かった場所だから。「荒」の文字を諱んだ訳だ。
※写真⑦、背景の山稜が文中にある入山城っす。徒歩で登る比高は80m位、高梨氏と村上氏、北信の両雄関連の要害はガチにビッてしてるぜ。再訪したら口コミしよう。当日のメインのデザートにぴったりだけどメインよりもお口に合う筈…