福沢氏館

福沢氏館([荒砥城  周辺城郭])

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福沢氏館の口コミ情報

2025年09月02日 内記かずりヾ(・ε・。)


福沢氏館は荒砥城の南南東約4.8km、標高約426mの山間部丘陵台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地の西側を南北に走る長野県道160号、上室賀坂城停車場線は、近世以前に小県郡と更級郡、埴科郡とを結んでいた室賀峠道の道筋に準じており、居館地は同道が山中から下りて来る場所に位置している。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「味ロッジ わくわくさかき びんぐし亭 直売所」…を目標に設定して下さい。この直売所に車を捨てたらリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは福沢(澤)氏です。同氏は清和源氏頼清流村上氏の分流だ。

史料等が全く存在しない氏族が多い村上氏の分流だが、福沢氏は僅かな期間とはいえ一次史料、第一級史料に登場する稀有な存在だ。

建武二年(西暦1335)十二月十一日、村上信貞は、足利直義に従い新田義貞勢を相模国竹ノ下で破るが、この時の軍忠を褒して直義から小県郡塩田庄が宛行われたと伝わり、以降の同庄は村上氏による代官支配が及んでいる。その代官を務めていたのがこの福沢氏だ。

「諏訪御符禮之古書」、文安五年(西暦1448年)戌辰花會の条には、「一 塩田御射山御符禮五貫六百六十六文頭役五十六貫文福澤入道像何次年御教書之禮如御符之禮神鷹神馬此年は福澤殿代官熱田道義勤仕候」とあり、塩田庄に福澤入道像何があった事、その代官に熱田道義があった事が判る。

享徳三年(西暦1454年)甲戌御射山の条には、「一 塩田庄代官福澤入道儀何御符之禮三貫三百文御鉾本一貫三百文使一貫文頭役六十貫文神鷹神馬御教書之禮如各御符之時次年入道死去之後葦毛馬一疋進上」とあり、塩田庄の代官として福澤入道儀何があり、御射山の頭役を勤めていた事が判る。但し、同名は翌年に死去したともある。

長禄三年(西暦1459年)己卯御射山の条には、「一 左頭塩田庄福澤入道沙彌像阿御符之禮三貫三百文御鉾本一貫三百文使一貫文御教書同前神鷹神馬は代一貫文頭役五十貫文」とあり、福澤入道儀何の子と推測される福澤入道沙彌像阿が御射山の左頭役を勤めていた事が判る。以降、長享三年(西暦1489年)まで、福澤氏は御射山の頭役等を五回に亘って勤仕し、約四十年間の間には八回の頭役等を勤めていた事になる。

天文拾参年(西暦1544年)甲辰六月吉日、福澤修理亮顯昌は、伊勢大神宮に、「ならもと(小県郡奈良本)の地より貮貫文」、「うちむら(小県郡内村)の地より壱貫貮百文」を新たに寄進し、別に「尾山(小県郡)之義者、如前々可有所納候、但土貢之義者、其年之可為風義候事」と書き、以前から納めていた尾山については寄進の際の条目を新たに定めている。

天文廿三年(西暦1554年)三月廿日、蓮華定院 御報御同宿中宛、福澤昌景書状には、「如御尊意、去春者致登山候處、色々御懇被懸御意候、悉次第ニ候、将又替銭等之義、今度可致其沙汰候處、定而可被及聞召候欤、去秋甲州衆就乱入候、領中土貢等不調ニ候、是故無沙汰口惜迄候、秋中少々可致其理候、御昔物種々送被可候、本望此事ニ候、諸事重而可申上候、恐々謹言、」とあり、福澤昌景は、蓮華定院の御報御同宿中に、昨年の秋、甲州衆が乱入したので領内の土貢が不調となり、無沙汰となってしまった事を詫び、今年の秋中には少しでもその理を致したいと言っている。前年には武田勢によってアプリの登録城、塩田城が落とされているのだから当然の事であろう。

居館の現況は…畑地、果樹園、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。信濃のお城の神は縄張を不定形の方形であったと推測しているが纏まりは割と良い方だと思う。改変著しく城郭遺構は完全消滅、近くの温泉施設、「びんぐし湯さん館」で汗でも流そう。

一万円紙幣の肖像の座を渋沢栄一に明け渡した福澤諭吉だけど、自らの墓誌には、「福澤氏の先祖は信州福沢の人なり」と書き込んでいる。長野県には比定出来る「福沢」の地名が11箇所に及ぶらしいんだけど、埴科郡坂城町の町長さんは当然の如くに同町内の「網掛福澤」を推している。つまりは諭吉が清和源氏頼清流村上氏の後裔だと言いたい訳だ。永遠に決着が付かない論争?なんだけど、個人的には中津藩藩士の家柄であった福澤家は、小笠原家の入封に伴って豊前入り、同藩の減知によって一時的に浪人、後の奥平家の入封の際に同家に出仕したと考えており、小笠原家との関係性を以てすれば坂城町説はかなり分が悪いと思うんだけど…

※蓮華定院〜紀州の高野山真言宗の寺院である。福澤氏は此処を宿坊と定めていた。何かと信濃と縁が深いお寺さん(信濃の国人等多数が宿坊と定めていた。真田氏もその一氏であり、同院との関係が始まったのは昌幸、信繁が最初ではない。)だ。

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