山田氏館
山田氏館([荒砥城 周辺城郭])
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山田氏館の口コミ情報
2022年12月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
山田氏館は荒砥城の南東約0.5km、標高約452mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。荒砥城の南麓直下に立地し平時の居館であったと推測されます。
行き方はGoogleマップに位置登録されている石造子安地蔵菩薩立像を目標に設定して下さい。このお地蔵さんの西側一帯が「御平」の字地名を残す居館の概ねの該地です。縄張図を見ても居館の敷地範囲は特に示されていないのでここら辺て感じでよいと思います。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは山田氏です。同氏は村上為国の子、仲経が村上郷内の山田を分知され地名を取って山田氏を称した事に始まる。山田氏は文治年間(西暦1185年〜1190年)、仲綱の時、千曲川の氾濫により五反田の平坦地から葛尾城のリア攻めマップにある構屋敷(釜屋のタテ)に居館を移し、その後は寄合延時の子、延基が後嗣として入り、その子、為宗、更にその子、信兼と続く。信兼は月影判官を称し応仁年間(西暦1467年〜1469年)、山田庄御平に砦を築き、後に荒砥城を築くに及んだそう。
戦国時代の山田氏は砥石城の城代、山田国政で知られる。国政は砥石城において矢沢頼綱(真田幸綱の実弟)と対立し、これに乗じた真田幸綱の調略により城を失いこの際に討死したとされる。小県郡支配における最重要拠点を預けられていた事は当時の村上氏被官としての山田氏の位置付けを物語る。
居館の現況は耕作地、果樹園、空地、一般住宅とその敷地等となっています。前述からすれば砦として築かれた事になるが、信濃のお城の神は「御平」の地名から居館であったとしている。改変著しく旧態を想像し難い。神の眼を持ってしても敷地範囲を明らかに出来ないのは当然でしょう。
山田国政は村上義清の後詰到着まで砥石城を堅守し、武田勢は砥石崩れと称される苦い敗戦を経験する。そんな勝ち戦の立役者の一人となった国政が住したかもしれない居館ですが、行っても特に何の感慨も湧いて来ないので子安地蔵菩薩に手を合わせたらとっとと帰るが正解です。
※写真2枚目、背景の山稜に荒砥城、模擬櫓が見えるかな。