屋代氏館

屋代氏館([荒砥城  周辺城郭])

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屋代氏館の口コミ情報

2025年05月11日 内記かずりヾ(・ε・。)


屋代氏館は荒砥城の南西約0.4km、標高約506mの山間鞍部段丘台地斜面上平場に立地した居館です。該地はこの山間部において人の住まう場所としては最上段となる。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいな。こんなんマップコード以外で上手く説明出来んわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは屋代氏です。同氏については屋代城のリア攻めマップにある屋代氏居館の口コミも併せて参照して下さいまし。

屋代氏は、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際にはその名が見られないが、永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「八番 村上殿代屋代殿」とあり、宗家である村上氏の代(理)として参陣している。

事の経緯は不明だが、戦国時代の屋代氏は頼国系村上氏で、本来の経業(明国)系村上氏とは別系統である。

天文十七年(西暦1548年)二月十四日の「上田原の戦い」の際には、当主、正国の嫡子、源吾基綱が十代の若さで討死(上田原の古戦場跡には基綱の物と伝わる五輪塔が残っている。)、天文二十二年(西暦1553年)には、塩崎某に同心して武田氏へ通じ、善光寺平口を押さえる(地図を見れば一目瞭然、屋代城は小県郡から更級郡に入って千曲川を渡り、埴科郡を通って雨宮の渡しで再び千曲川を渡る、善光寺平へ通じる道筋を扼している。)同氏の離反は村上氏の孤立を招き、埴科郡坂城郷からの退去を決断させた。

武田氏時代には左衛門尉政国が信濃先方衆として軍役七十騎、永禄二年(西暦1559年)には、更級郡の新砥(荒砥)の内、山田庄内の中内河、埴科郡の内、戸蔵、福井を宛行われたが、従来の本領の替地としてであり、本拠を埴科郡船山郷、同郡屋代郷から更級郡荒砥へ移す事になる。事情は明らかではないが、川中島の戦いが影響を及ぼした事に殆ど疑いは無いだろう(村上氏の一族である屋代氏は武田氏に常に警戒されていた。)。

後嗣を失った正国は、舎弟、室賀満正の二男、正長(清綱)を養嗣子とするが、天正三年(西暦1575年)五月二十一日、「長篠の戦い」の際に討死、結局、満正の四男、秀正が家督を継ぐ事になる。

武田氏の滅亡後、信長の横死後には上杉氏に服属、海津城城代の村上景国(山浦国清、村上義清の嫡子である。)の寄騎となったが当然ながら関係は上手くいかなかったらしい。当主の秀正は、天正十二年(西暦1584年)四月一日、塩崎六郎次郎、実弟の室賀満俊等と共に突如として上杉氏を離反する(同年中の上杉勢による新発田攻めを中断に追い込んでいる。)。

天正十一年(西暦1583年)三月十四日、屋代右(左)衛門尉(秀正)宛、徳川家康宛行状案には、「信州更級郡之事 右、此度、被對当方へ、可有一味由被申越候間、則彼郡之儀、所令領掌不可有相違、弥以此旨、可被励忠信者也、仍而如(件)、」とあり、屋代秀正は、前年から徳川氏による調略を受けていたようだ。徳川家康は、秀正に、更級郡を領掌する事(かなりの人参をぶら下げたように思う。)を約し、これを以て更なる忠信に励むよう求めている。

居館の現況は…信濃のお城の神の縄張図を見ても敷地範囲すら示されていないんだけど、その中心地は弁天池と称する配水池で、この池が普携寺の旧地、館跡と伝わっているんだそう。池の畔の高まりには三峯社の祠、宝筐印塔の残欠が残る。

が、どうにも纏まりに欠けるし、弁天池の面積が狭小に過ぎるのも事実…千曲市の「荒砥城の当時の様子(想像図)」では、弁天池下段の微高地を居館地としているようにも見える。一応、探索に入ってみたけど、確かにこちらの方が遥かに適地だと感じられた。但し、この微高地は耕作地としての改変がある上に、周辺には他にも候補となる場所が幾つか散見される。

永禄二年から天正十二年(神本の天正十一年三月は誤り。)までの間に、屋代正国、その養嗣子、正長、秀正(両名は大河ドラマ、真田丸で一躍有名になった黙れ!小童!室賀正武の実の兄弟である。)が居館した場所になると思われるが確実だとは言い切れない面が多分にある。ちなみに信濃のお城の神は、「その時の館がここであったかは不明。」て読んでる方はずっこけまくりな記述で突き放す。

※本拠を埴科郡船山郷、同郡屋代郷から更級郡荒砥へ移す事になる〜居城を荒砥城に移されたてよく書かれるが…知行地を替える事が本旨であり、基本的に知行地内の何処に居館しようが当人の勝手だ。

※写真②、背景中央の山稜が同じ荒砥城のリア攻めマップにある荒砥小城っす。

※写真⑥、背景のぽこりんが岩井堂山(自在山)、山頂部には同じ荒砥城のリア攻めマップにある出浦城が立地する。

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