屋代氏館

屋代氏館([荒砥城  周辺城郭])

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屋代氏館の口コミ情報

2022年12月07日 内記かずりヾ(・ε・。)


たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

屋代氏館は荒砥城の南東約0.4km、標高約506mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。荒砥城の南西麓に立地し、この山間部において人の住まう場所としては最上段となる。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは屋代氏です。屋代氏の長く複雑な歴史を一千文字で語るのはとても無理なので戦国時代における屋代氏の話を少々…

戦国時代の屋代氏は頼国系村上氏で、本来の経業(明国)系村上氏とは別系統である。天文二十二年(西暦1553年)、塩崎某に同心して武田氏へ通じ、善光寺平口を押さえる(地図を見れば一目瞭然、アプリ登録城である屋代城は小県郡から埴科郡、更級郡を経て善光寺平に至る道筋、松本平から筑摩郡を経て善光寺平に至る道筋を眼下に置く結節点だ。)同氏の離反は村上氏を孤立させ、事実上その息の根を止めたに等しい。

武田氏時代には左衛門尉政国が信濃先方衆として軍役七十騎、永禄二年(西暦1559年)には埴科郡の内、福井、戸蔵、更級郡の新砥の内、山田庄内の中内河を宛てがわれたが、従来の本領の替地としてであり、本拠を屋代城から荒砥城へ移す事となる。事の経緯は明らかではないが川中島の戦いが影響を及ぼした事は想像に難くない。

居館の現況ですが。縄張図を見ても敷地範囲すら示されていない。中心地は弁天池と称する配水池で、この池が普携寺の故地、館跡と伝わる。池の畔の高まりには三峯社の祠、宝筐印塔の残欠が残る。

永禄二年から天正十二年(西暦1584年、神本の天正十一年三月は誤り。)までの間に屋代正国、その養嗣子秀正(大河ドラマ真田丸で一躍有名になった室賀正武の実弟である。)が住した居館て事になるが、信濃のお城の神は「その時の館がここであったかは不明。」て読んでる方はずっこけまくりな記述で突き放す。じゃぁ何で屋代氏館なんだよ…神は時には冷酷なものなんだろう。

※写真1枚目の背景の山稜が同じ荒砥城のリア攻めマップにある荒砥小城っす。

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