城腰の大下館
城腰の大下館([荒砥城 周辺城郭])
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城腰の大下館の口コミ情報
2022年12月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
城腰の大下館は荒砥城の南東約0.8km、標高約390mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。荒砥城の南東尾根直下に立地、名称にある「城腰」は城の麓を意味する地名であり少なくとも信濃ではよく見掛ける。
行き方はGoogleマップに位置登録されているファミールひまわりBを目標に設定して下さい。この長屋共同住宅から舗装道路を挟んだ北西側の一帯が概ねの該地です。駐車場所には困りますので車は自身の持つ器量を鑑みて適地を選んで捨てましょう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは山田氏です。同氏については同じ荒砥城のリア攻めマップにある山田氏館を参照して下さい。山田氏は村上為国の子、仲綱が山田の地を分知され山田庄司として開発主体となる。その子、為村は山田庄の経営を推し進め、併せて文化の進展に寄与する。即ち十一面観音立像を古屋から移遷し氏寺とし、宇佐八幡を氏神として拝する。波閇科(はべしな)神社を産土神として祀る他、大御堂、法華寺、弥六寺は皆同氏関連の寺院であった。注目に値されるのは建久八年(西暦1197年)、源頼朝の善光寺参詣の折、山田氏はその忠勤を賞されて守護不入の権を賜っている。
居館の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。同じく山田氏の居館と推測される葛尾城のリア攻めマップにある構屋敷(釜屋のタテ)とは時代的な変遷があるのだろうか。別に一族の何某かが居していたとも考えられる。該地は南北を女沢川と田島沢の流れに挟まれた段付きの平場で、敷地の南東隅には「大下」の屋号を持つ一般住宅が建つ。切り込みハギの石垣は当然後世のもの。ちなみに今に残る波閇科神社の位置はこの城腰の大下館の至近となる。
鎌倉時代の山田氏は宗家とは別に半ば独立した事跡が幾つか確認出来る(吾妻鏡)が、大塔物語、結城陣番帳に同氏の名は見られない。南北朝時代には北朝方となった安信系が台頭し、室町時代には幕府に抗する動きが見られる村上氏だが、中央との関わり合いによって宗家の経営が大きく左右された可能性が見受けられる。こうした時々の宗家再編の離合の中で、同族である山田氏は次第に在地での独立性を保てなくなったようにも感じられる。