芝生田館(柴生田城)
芝生田館(柴生田城)([小諸城 周辺城郭])
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芝生田館(柴生田城)の口コミ情報
2026年04月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
芝生田館(柴生田城)は小諸城の西北西約3.7km、大石沢川東岸(左岸)、千曲川北岸(右岸)、標高約637mの段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。但し、付近の農道は舗装されてるとはいえ狭隘、接近は止めておこう。同じく位置登録がある天台宗の寺院、宇賀山観音院「東漸寺」の駐車場に車を捨てて徒歩で訪ねた方が無難かもしれない。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは柴生田氏です。同氏の発祥や出自等ははっきりしないが、滋野三家の一つ、祢津氏の分流が推測されている。
「長野県町村誌」には、「芝生田組北の田間三町(約327m)にあり。本郭東西二十間(約36.4m)南北三十間(約54.5m)、三方堀あり。北三條の石塁ありて、城東、城西の腰と稱し、馬場、坪屋敷の名あり、其遺跡を存す。馬場は城北二町(約218m)、路上の田にして、傍の橋下に、馬タラヒ石なるものあり、長四尺(約1.2m)、幅二尺(約0.6m)、古物にして新治牧の遺物ならん。城の中に一碑石あり、三面に文字あれとも、磨減して読みがたし、これ後人の建てる所にして、唯小笠原長武、明徳、東漸寺の文字を見る。里老傅曰、小笠原長武此城に居せしと。これ小笠原系図に、別府、柴生田の二城を抜と見えたる時、假に居せしならん。柴生田氏の居城たるは、諏訪上宮神官文字に、文明二年庚寅、柴生田石見守光信、同十二年庚子、柴生田沙彌常能、同十七年乙巳、柴生田伊豆守直満と見えて、諱に直の字を用ひたれば、禰津氏の族従たらん。かく三代の名稱の見えたるは、数代住せしものなるべし。」とある。
永享八年(西暦1436年)三月六日、小笠原治部大輔入道(正透、一般的には政康の名で書かれる。)宛、足利義教感状には、「越知隈(千曲)河、差寄祢津、追落柴生田、別府両城、仍太刀一腰遣之候也、」とあり、将軍、足利義教は、小笠原正透に、(芦田氏の討伐のために)千曲川を渡り、(芦田氏に同心する)祢津氏の本領に攻め寄せ、柴生田、別府の両城を落城せしめた軍忠を褒して太刀、一腰を遣わしている。町村誌が記す、「これ小笠原系図に、別府、柴生田の二城を抜と見えたる時」はこの時の事を言っている。
「諏訪御符禮之古書」、享徳三年(西暦1454年)甲戌御射山の条には、「一 柴生田岩(石)見守一貫八百文頭役八貫文馬一疋」、寛正三年(西暦1462年)壬午花會の条には、「一 磯並柴生田石見守光信御符之禮一貫八百文頭役八貫馬一疋」、文明二年(西暦1470年)庚寅花會の条には、「一 花會加頭柴生田石見守光信御符之禮一貫八百文使三郎御頭役十貫」、文明十二年(西暦1480年)庚子明年花會御頭定の条には、「一 宮頭柴生田沙彌常能御符禮一貫八百」、文明十七年(西暦1485年)乙巳花會明年頭番役事の条には、「柴生田磯並伊豆守直光御符禮一貫八百使彌三郎代初」とあり、町村誌の記述はこれを出典としている。記述を見ると、柴生田氏は祢津氏の代官等ではなく、柴生田を知行地とする祢津氏の一族であったようだ。
お気に入りの居館跡だ。理屈なんかじゃなくて何となく好きなのだ。三方堀囲みの単郭方形居館、堀は深さのある用水路に変貌しているんだけど、石塁(後世の土留めかと思う。)なんかも1条だけなら確認出来るような気がするし、往時がイメージし易く大変纏まりが良い。町村誌の言う、以前は倒れて泥だらけだった「一碑石」も現在は磨かれて文字がある程度は判るようになっていたのにはびっくりした。現役の畑地なのに案内板がちゃんと立っているところなんかも萌えポイント、もはや感動でしかない。2棟のビニールハウスなんて気にしないぜ。
柴生田城への在城が伝わる小笠原長武なんだけど、居館地に建つ石碑には、「小笠原氏常盤介紀長武」て刻まれている。但し、小笠原氏の各種系図には同時代に該当する人物が見当たらない(何せ大族だ。)。
※柴生田〜「しぼうだ」て読ませるみたい。
※後世、周囲は全て田地となったが、此処だけは畑地のままらしい。
※写真④はビニールハウスとガチンコ勝負で真剣に向き合った耕作地写真の典型っす。5回は撮り直してる。









