別府城(屋敷)
別府城(屋敷)([小諸城 周辺城郭])
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別府城(屋敷)の口コミ情報
2025年10月07日 内記かすりヾ(・ε・。)
さて、全国各地、無数に存在する中世城館なんだけど、その城歴となると殆どが軍記物や伝承等を元にしており、確実な史料に残るものはほんの僅かだけだと言ってよい。裏付けが取れない以上、伝えられてきたそれぞれのストーリーを絶対に正しいものだとして受け入れる事は決して出来ないと考える。今回、紹介する物件はそんな中でも一次史料にも登場する稀有な存在、今となっては見事なまでの耕作地、兵どもが夢の跡なんだけど…
別府城は小諸城の北西約5.4km、千曲川北岸(右岸)、西沢川西岸(右岸)、標高約691mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地は「延喜式」に載る、信濃十六御牧の一つ、新治牧の旧地の一部であったと推測されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられる。
「別府」は全国各地に見られる地名だが、本来は中世の土地制度において、院庁、国司から発給された、対象地の支配、徴税に関する特例を認めた文書の事、「別納徴符」、「別納免符」を指している。公領や荘園の新たな開発区域や別途に年貢を納める事が文書を以て認められた土地、つまりは「別府」とはその特例を受けた場所に付けられた地名である。ちなみに小県郡の「別府」が何に付随する別府なのかは判らない。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは別府氏です。同氏は祢津氏の一族、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、大文字一揆衆を構成する禰津越後守遠光の麾下に「別府」の名が見られる。
永享八年(西暦1436年)三月六日、小笠原治部大輔入道(正透、一般的には政康の名で書かれる。)宛、足利義教感状には、「越知隈(千曲)河、差寄祢津、追落柴生田、別府両城、仍太刀一腰遣之候也、」とあり、将軍、足利義教は、小笠原正透に、(芦田氏の討伐のために)千曲川を渡り、(芦田氏に同心する)祢津に攻め寄せ、柴生田、別府の両城を落城せしめた軍忠を褒して太刀、一腰を遣わしている。
居館の現況は…田地、畑地、果樹園、耕作放棄地等となっている。確証は無いのだが、遠目に見える雑木林の部分が縄張の中心部らしく、此処には小さな石祠が鎮座している。一帯に見られる土留めの石積みは全て後世の耕作地のもの。「小県郡史」では石塁の存在を示唆しているが、やはり耕地から出た石の集積と見るのが正解だろう。従って城郭遺構は完全消滅、居館敷地範囲すら定かではない。
該地の南南西約0.6kmに位置する、旧大石村の金子集落内には、相撲ファンの聖地、「雷電生家」が立地する。雷電こと雷電爲右衛門(関太郎吉)は、寛政年間(西暦1789年〜1801年)に黄金時代を築き上げた相撲史上最強と謳われる力士、生涯戦績は254勝10敗2分14預5無41休、勝率は驚異の9割6分2厘、当時の日本人としては破格、六尺五寸(約197cm)、四十五貫(約169kg)の体躯を持ち、突っ張りと寄りを得意技に西の大関(横綱免許が無いのは当然の時代である。)として一世を風靡した。相撲ファンは巡礼しなきゃ話にならんわい。ちなみにこの雷電、松江藩松平家の御抱え力士だった時期もあるんで松江城ファンも訪ねてみるがいいさ。
※「雷電生家」〜口コミはしないので同じ小諸城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。ちなみに生家とあるが、大関時代に自身が建て直した家屋であるらしい。近くの関家墓所内にはお墓もあったりする。手形の大きさにびっくりしよう。
※当時の日本人としては破格〜角界のディカプリオ…元大関の把瑠都とほぼ同格らしい。ちなみにかずぽんは日本のビョルン・アンドレセンてな感じでForbes誌やTIME誌に紹介さりている。
※話が脱線、どっちがメインなのかは知らん。









